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長編実験映画の快楽
 このプログラムではイメージフォーラムのストック作品の中から国内外のエポックメーキングな長編の実験映画作品を特集。劇映画ともショートフィルムとも異なる構造を持つ「特別な時間」に焦点をあてた。

カメラを持った男●私はーキノグラース(映画眼)だ。 私はー機械の眼だ。 私、機械は、私ひとりだけが見ることのできる世界を諸君に示す。
私は、今日から永久に、人間の不動性から自分を解放する、私は連続的な運動のなかにいる。私は近づき、物から遠ざかる、私は物の下にはいり込む。私は走っている馬と鼻面を並べて進む、私は全速力で群衆の中へ突っ込む、私は走っている兵士たちの前を走る、私はあおむけにひっくりかえる。私は飛行機とともに上昇する、私は落ちたり飛び上がったりする物体とともに落ちたり飛び上がったりする。
さて、私、カメラは合成力に従って突進した、物の混沌の間を縫って行った、最も複雑にからみあった運動を次々と定着した。
1秒間に16〜17コマという約束から解放されて、時間的・空間的枠から解放されて、私は、私がこれまでに定着したことのないような宇宙の任意の諸点を比較する。
私の道はー世界のいきいきとした知覚の創造に向かっている。見たまえ、私は諸君の知らない世界を新しく解読しているのだ。
(ジガ・ヴェルトフ、福島紀幸訳/「季刊フィルム」No.8 1971 フィルムアート社刊より抜粋)

波長●例えば日本でよくしられた『波長』だが、ここでは45分という時間とその間一貫してフィックス・キャメラのズームが寄っていくというコンセプトが伝説化している。しかしこの作品の最も重要な側面は、それが「音に伴って」進む視聴覚体験であることで、その音は厳密に計算された正弦波の周波数音(50〜12000Hz)と現実音からなり、タイトル(Wave Length)の由来と考えられる。(ほかにラストの写真の「波」とズームが進む部屋の「長さ」を掛けてもいる)。<中略>時間の体験、ズームを見ることは、いずれもそれ自体の官能性をたたえているのだ。そしてそれは完全にメカニックな動きではなく手動の反機械的ガタつきのなかで実現される。
(マイケル・スノウ、「月刊イメージフォーラム」 1989年2月号より抜粋)

ロスト・ロスト・ロスト●「私がこの6巻のフィルムに関わった時代は、新しい土地に定着して新たな思い出を作るための、緊張にみちた努力と絶望の時期でした。こうした悲痛さに溢れたフィルムで、人が亡命で体験した感情や、当時の私が身をもって知った気持ちを私は表現したかったのです」 こうした自分自身の歴史への透徹した眼差しは、ドキュメンタリストとしての情熱がすでに早くからジョナス・メカスにおいて身についていたことで初めて可能になったのである。人々の日記が1ページ1ページ綴られていったように、彼は映像という無言の証言をもってフィルム1本1本を満たしていった。思い出が今や映像の扉を開くわけであるが、だがしかし思い出は映像とともに初めて動き出すのである。(ヴォルフラム・シュッテ、村山匡一郎訳/「フランクフルター・ルンドシャウ」誌1976/7/2)

石の詩●対象が<石>、しかもそれを<写真>で表現するという、ドキュメンタリーにとって前代未聞の枷は、たいがいの映画監督なら、まずムリとあきらめてしまうところだ。が、この作家は、動きのないものに動きを与えるアニメーションの方法をもって、どんなに激しく動く対象に迫った映画よりも、はるかに鋭い<動き>の感覚を作りだしたのである。動きを凍結された<写真>は、緩急自在に動くカメラの抑揚と、ほとんど軋みにまで分解されたサウンドによって、見るものを、息詰まるような緊張の中に誘いこむ。映画に対するこの作家の、怜悧な計算とコントロールがここに見事に結実している。
(「松本俊夫の映画の果てしない彼方へ」かわなかのぶひろ '75松本俊夫映像回顧展カタログより)

15日間●1979年11月19日から12月3日までの15日間、自宅の片隅に固定したカメラの前で「私」は日々の生活や映画について語る。作者が苦痛を伴いつつ毎晩行うこの記録の儀式は、カメラ=他者という視線を「意識」しすぎて(作者のメディア意識そのものの反映)カメラの前に座る私の身体を硬直させ思考をもつれさせる。そうした有り様を密室を覗くように見ている我々観客の不自然さ、居心地悪さもまた異様である。フィルムという鏡像をとおして自画像を描いてきた鈴木志郎康のスタイルは、ここにきてカメラの前に直接自分が立ってしゃべり始めるという短絡に行き着く。カメラの前で最初は背を向けるようにして語っていた「私」は次第にカメラを直視するようになっていく。
(「私という名のカメラ・オブスクラ」西嶋憲生、「生まれつつある映像」文彩社刊より)

GOOD-BYE●朝鮮半島に以前から関心のあった僕は、血から地へ、と辿る映画を創ろうと、学生時代から続けていたスクラップ・ブックを整理してみた。
併し、当時は新しい内容と同時に、新しい表現方法が厳しく要求される時代であったから、構想はなかなかまとまらず、ベッドと机の間をただただ往き来するだけで一向に進まない。そんなある日、一枚の古地図と巡り合うことができた。メルカトルの地図である。そこに描かれた「Corea」は、南北に細長く伸びた大きな島で、半島ではなかった。
この不思議な地図を眺めているうちに、いつしか静電気が纏わりつきだし、部屋はついに真っ青に染まった。頭に手をやると毛髪がパチンパチンと音を立て、辺りに青白い炎を飛ばしている。これでいよいよ禿げるぞという不安が、一瞬脳裏をよぎってゆく。
それからどれほどの時間が流れたのか、我に返った時、そこに四十枚ばかりのプロットができ上がっていた。
(金井勝、「微笑う銀河系」れんが書房新社刊より) 

HEAVEN-6-BOX●『HEAVEN-6-BOX』の映像は、論理では決して解析できない霊性に満ち溢れている。大木裕之は言霊ともいうべき言葉のダブルミーニングの不思議な力を駆使し、巫女のように神秘的な映像を紡ぎあげた。観るものが、映像の力によって作者とひとつに結ばれることによってHEAVENの世界へとたゆたうこと。それが、この作品の最大の魅力と言える。
(「HEAVEN-6-BOX」 カタログより)

毛髪歌劇● これが、インディーズ・フィルムだ!! これは、強烈な女を強烈に追いかける愛の物語。裏ポルノじゃないよ。歌の抑揚が物語を動かして、ドラマティックに展開するロマン主義の映画。手持ちカメラは手の延長、眼の延長、耳の延長だ。映画そのものに疑いをかけ、映画を破壊するアナーキストの 映画なのだ! フィルムに直接毛髪などを貼り付けているが、これはお客様への一種のサービスであって、他意はありません。
(帯谷有理、「ヴェリズモからアシッドへ」1998上映会チラシより)

私小説●このショットの後にどのショットをつなぐのかということに、いつも悩んでしまう。描くイメージははっきりしているのに、それを叙述する文体がいまだ掴めない。物語という叙述方法を採り入れれば解消するだろうが、それによって映像の言葉が脆弱になることには耐えられそうにない。そんな思いを絶えず抱きながら1987年から1992年にかけて手がけてきた『私小説1-6』がこの作品のベースとなっている。作品で描こうとしていることをあえて言葉にするならば、"記憶の軌跡"である。しかし具体物を撮るカメラでこれを描くのはとても難しい。
(かわなかのぶひろ、「イメージフォーラム・フェスティバル1996」カタログより)

GOOD-BYE
私小説
ロスト・ロスト・ロスト
15日間
受付(各回入替制)
当日900円/会員600円/3回券2000円

■9/7
カメラを持った男
ジガ・ヴェルトフ/16ミリ版/69分/1929
波長 マイケル・スノウ/16ミリ/45分/1966-67
ロスト・ロスト・ロスト
ジョナス・メカス/16ミリ/176分/1975(撮影1949-1963)

■9/14
西陣 松本俊夫/16ミリ/30分/1961
石の詩 松本俊夫/16ミリ/30分/1963
GOOD-BYE 金井勝/16ミリ/52分/1971
15日間 鈴木志郎康/16ミリ/90分/1980

■9/21
毛髪歌劇 帯谷有理/8ミリ/60分/1992
HEAVEN-6-BOX 大木裕之/16ミリ/60分/1995
私小説 かわなかのぶひろ/16ミリ/102分/1996