back  next
2004/6/13,6/20
前提的な過剰、根本的な欠損
これら3作品の製作は常に幾何学的ともいえる明確な構成をかたどるところから始まっている。
『[cameRa]』では二人称の関係を逆・裏・対偶の位置に移動させながら、二点を結ぶ線を”視線”とし、パワーゲームを演じた。『[vIdEo]』では互いに交合する三人称と超自我である語り手を設け、オイディプス的三角形の変奏を試みた。そして『[Audio]』では錬金術に準えた四元素と仏教圏の四大葬を交配させ、到達点(アクア・ウイタエ)に向けられたすべてが副産物に過ぎぬ金への拘泥で終わる=近代資本主義への悲哀と、孤立するトラウマティックな人格を諦観という寛容によってただ赦していく以外に処方のない痛切を、盗聴音声と再現映像を基軸に描写しようとした。
二、三、四と序列していく要素と構成の骨子はワイヤーフレームのように無機質で厳格であり、物語の序から跋までを瞬時に決定する。
ようやくこの後になって、温くだらしない肉と黄濁に染色された皮膚が後天的に作品へ付与される。__流入するメディアの毒素、匿名の暴力、ポリティクスの廃材と不発弾、記憶と記録媒体の混同、出自の区別がつかない情念、体液バランスの喪失で起こる殺人と彼岸の設定、商品になりきれぬ外傷的な売買春、体質的な抑鬱、前提的な過剰、根本的な欠損……作風を色づけていくこれらのすべては1990年代という時代から汲み取られてくる。歪で猥雑なそれらが観念を覆い隠すのに有効であるという言い方もできるだろうし、また1990年代を生きて得た正統な語り手としての誇りと怨恨がそうさせるのだという言い方も可能である。
盗撮・盗聴・記憶媒体の再生などの語り口は、ある種の相応しさに即すと同時にデバイスに付随するパーソナルな視点を生かしながら「物語りの実験」をなすためでもあった。ここで行ってきた話法の実験がニューナラティブへと帰属させられるものか否かは争点ではないが、CGの概念化によって視覚の実験が色褪せていく中、いまだ多く余地の残された話法の実験が魅力的であることは事実である。物語るための方法と方法へ向かう意識的な態度は、いずれ映画全般に還元されていくものかもしれないし、あるいは個人がなにかを物語るために、ある日唐突に必要を迫られるものかもしれない。(徳永富彦)

徳永富彦●1974年生まれ。早稲田大学卒業。
vidEo
受付(入替制)
当日900円/会員600円/2回券1500円

■上映作品
[cameRa] ビデオ/34分/2000
ハノーファー国際映画祭2001 フィルムコメッツ賞
ロッテルダム国際映画祭 正式招待作品
バンクーバー国際映画祭 正式招待作品
ブリスベン国際映画祭 正式招待作品
ハンブルグ国際短編映画祭 正式招待作品
Figure Libre 正式招待作品
Bandits&Magus Video&Film Festival 正式招待作品
ジャカルタ国際映画祭NETPAC賞 ノミネート作品

[vIdEo]  ビデオ/58分/2002
ハノーファー国際映画祭2003  フライングカメラ賞(グランプリ)
香港国際映画祭 正式招待作品
高雄国際映画祭 正式招待作品
First Frame Film Festival 正式招待作品

[Audio] ビデオ/119分/2004

※全て徳永富彦作品