国内外の映像アート作品の上映、レクチャーを定期開催。古典的名作 から、最新の実験映画まで

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2004/9/5,9/12,9/19
長編実験映画の快楽
このプログラムではイメージフォーラムのストック作品の中から国内外のエポックメーキングな長編の実験映画作品を特集。劇映画ともショートフィルムとも異なる構造を持つ「特別な時間」に焦点をあてた。

カメラを持った男●私はーキノグラース(映画眼)だ。 私はー機械の眼だ。 私、機械は、私ひとりだけが見ることのできる世界を諸君に示す。
私は、今日から永久に、人間の不動性から自分を解放する、私は連続的な運動のなかにいる。私は近づき、物から遠ざかる、私は物の下にはいり込む。私は走っている馬と鼻面を並べて進む、私は全速力で群衆の中へ突っ込む、私は走っている兵士たちの前を走る、私はあおむけにひっくりかえる。私は飛行機とともに上昇する、私は落ちたり飛び上がったりする物体とともに落ちたり飛び上がったりする。 さて、私、カメラは合成力に従って突進した、物の混沌の間を縫って行った、最も複雑にからみあった運動を次々と定着した。 1秒間に16〜17コマという約束から解放されて、時間的・空間的枠から解放されて、私は、私がこれまでに定着したことのないような宇宙の任意の諸点を比較する。 私の道はー世界のいきいきとした知覚の創造に向かっている。見たまえ、私は諸君の知らない世界を新しく解読しているのだ。
(ジガ・ヴェルトフ、福島紀幸訳/「季刊フィルム」No.8 1971 フィルムアート社刊より抜粋)

波長●例えば日本でよくしられた『波長』だが、ここでは45分という時間とその間一貫してフィックス・キャメラのズームが寄っていくというコンセプトが伝説化している。しかしこの作品の最も重要な側面は、それが「音に伴って」進む視聴覚体験であることで、その音は厳密に計算された正弦波の周波数音(50〜12000Hz)と現実音からなり、タイトル(Wave Length)の由来と考えられる。(ほかにラストの写真の「波」とズームが進む部屋の「長さ」を掛けてもいる)。<中略>時間の体験、ズームを見ることは、いずれもそれ自体の官能性をたたえているのだ。そしてそれは完全にメカニックな動きではなく手動の反機械的ガタつきのなかで実現される。
(マイケル・スノウ、「月刊イメージフォーラム」 1989年2月号より抜粋)

リトアニアへの旅の追憶●1949年、故郷からナチスに追われアメリカに亡命したジョナス・メカス。言葉も通じないブルックリンで一台の16ミリカメラを手にしたメカスは日々の生活を日記のように撮り始める。27年ぶりに訪れた故郷リトアニアでの母、友人たちとの再開。メカスはそれらの全てをみずみずしい映像と言葉で一つの作品にまとめ上げた。

石の詩●対象が<石>、しかもそれを<写真>で表現するという、ドキュメンタリーにとって前代未聞の枷は、たいがいの監督なら、まずムリとあきらめてしまうところだ。が、この作家は、動きのないものに動きを与えるアニメーションの方法をもって、どんなに激しく動く対象に迫った映画よりも、はるかに鋭い<動き>の感覚を作りだしたのである。動きを凍結された<写真>は、緩急自在に動くカメラの抑揚と、ほとんど軋みにまで分解されたサウンドによって、見るものを、息詰まるような緊張の中に誘いこむ。映画に対するこの作家の、怜悧な計算とコントロールがここに見事に結実している。
(「松本俊夫の映画の果てしない彼方へ」かわなかのぶひろ '75松本俊夫映像回顧展カタログより)

15日間●1979年11月19日から12月3日までの15日間、自宅の片隅に固定したカメラの前で「私」は日々の生活や映画について語る。作者が苦痛を伴いつつ毎晩行うこの記録の儀式は、カメラ=他者という視線を「意識」しすぎて(作者のメディア意識そのものの反映)カメラの前に座る私の身体を硬直させ思考をもつれさせる。そうした有り様を密室を覗くように見ている我々観客の不自然さ、居心地悪さもまた異様である。フィルムという鏡像をとおして自画像を描いてきた鈴木志郎康のスタイルは、ここにきてカメラの前に直接自分が立ってしゃべり始めるという短絡に行き着く。カメラの前で最初は背を向けるようにして語っていた「私」は次第にカメラを直視するようになっていく。
(「私という名のカメラ・オブスクラ」西嶋憲生、「生まれつつある映像」文彩社刊より)

王国●『無人列島』を撮り終えた時点で3部作にしようと思った。製作費等の問題を含めた様々な処で、自分達の力の無さを痛い程知らされたぼくは、続け様にあと2本の映画を創って、それ等がそれぞれの間にある一定の角度を保つ独立した作品でありながら、且つ合体したときには壮大な1本の映画にもなり得る様な3本の映画をと、考えたのである。
連帯の中の個をテーマとした『無人列島』が「人の巻」なら、血から地へと辿る『GOOD-BYE』は「地の巻」、そしてこの時間と格闘する『王国』は当然「天の巻」となって、3部作で<微笑う銀河系>となる構造だ。
(金井勝、「微笑う銀河系」れんが書房新社刊より) 

HEAVEN-6-BOX●『HEAVEN-6-BOX』の映像は、論理では決して解析できない霊性に満ち溢れている。大木裕之は言霊ともいうべき言葉のダブルミーニングの不思議な力を駆使し、巫女のように神秘的な映像を紡ぎあげた。観るものが、映像の力によって作者とひとつに結ばれることによってHEAVENの世界へとたゆたうこと。それが、この作品の最大の魅力と言える。
(「HEAVEN-6-BOX」 カタログより)

毛髪歌劇● これが、インディーズ・フィルムだ!! これは、強烈な女を強烈に追いかける愛の物語。裏ポルノじゃないよ。歌の抑揚が物語を動かして、ドラマティックに展開するロマン主義の映画。手持ちカメラは手の延長、眼の延長、耳の延長だ。映画そのものに疑いをかけ、映画を破壊するアナーキストの 映画なのだ! フィルムに直接毛髪などを貼り付けているが、これはお客様への一種のサービスであって、他意はありません。
(帯谷有理、「ヴェリズモからアシッドへ」1998上映会チラシより)

私小説●このショットの後にどのショットをつなぐのかということに、いつも悩んでしまう。描くイメージははっきりしているのに、それを叙述する文体がいまだ掴めない。物語という叙述方法を採り入れれば解消するだろうが、それによって映像の言葉が脆弱になることには耐えられそうにない。そんな思いを絶えず抱きながら1987年から1992年にかけて手がけてきた『私小説1-6』がこの作品のベースとなっている。作品で描こうとしていることをあえて言葉にするならば、"記憶の軌跡"である。しかし具体物を撮るカメラでこれを描くのはとても難しい。
(かわなかのぶひろ、「イメージフォーラム・フェスティバル1996」カタログより)
15日間
HEAVEN-6-BOX
毛髪歌劇
私小説
受付(入替制)
当日900円/会員600円/3回券2000円

■上映作品
9/5
カメラを持った男
 ジガ・ヴェルトフ/16ミリ版/69分/1929
波長 マイケル・スノウ/16ミリ/45分/1966-67
リトアニアへの旅の追憶
 ジョナス・メカス/16ミリ/87分/1972

9/12
西陣 松本俊夫/16ミリ/30分/1961
石の詩 松本俊夫/16ミリ/30分/1963
王国 金井勝/16ミリ/83分/1973
15日間 鈴木志郎康/16ミリ/90分/1980

9/19
毛髪歌劇 帯谷有理/8ミリ/60分/1992
HEAVEN-6-BOX 大木裕之/16ミリ/60分/1995
私小説 かわなかのぶひろ/16ミリ/102分/1996

 

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