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  2006/9/9,10,16,17,23,24
時が乱吹く
毛髪歌劇
私小説
<受付>
当日900円/会員600円/3回券2000円

<上映作品>
薔薇の葬列 松本俊夫/35ミリ(16ミリ版)/107分/1969
時が乱吹く 金井勝/16ミリ/62分/1991
15日間 鈴木志郎康/16ミリ/90分/1980
毛髪歌劇 帯谷有理/8ミリ/60分/1992
HEAVEN-6-BOX 大木裕之/16ミリ/60分/1995
私小説 かわなかのぶひろ/16ミリ/102分/1996
<関連企画>
イメージフォーラム付属映像研究所サマースクール
長編実験映画の快楽
このプログラムではイメージフォーラムのストックしている日本作品の中から、エポックメーキングな長編の実験映画作品を特集。劇映画ともショートフィルムとも異なる構造を持つ「特別な時間」に焦点をあてた。

薔薇の葬列●「ジュネ」のオーナー権田(土屋嘉男)とエディ(ピーター)のめくるめく情事で映画は始まる。二人の密会を権田の愛人でもある「ジュネ」のママ、レダ(小笠原修)が見ていた。そんなある日、母の情事を目撃したエディは母を発作的に殺してしまう。ベトナム戦争帰りの麻薬の売人トニーと一夜を共にするエディ。フーテンのゲバラ (内山豊三郎)たちとのマリファナと乱交パーティの世界に引き寄せられていくエディ。冒頭にボードレール『悪の華』の一節「われは傷口にして刃、いけにえにして刑吏」という字幕が掲げられるように、ことさらに戯画化されて描かれたこの映画は、悲劇の不可能な時代に突きつけた監督松本俊夫の悪意の刃なのかもしれない。1960年代末期の新宿、六本木、原宿を舞台に、ピーターとゲイボーイたちのコミカルなドラマは血の惨劇へと変わる。
時が乱吹く●短歌篇、俳句篇、詩篇の三つのオムニバスで描く映像の詩歌。『夢走る』では映像制作を手作りのおでんになぞらえる。主演者は城之内元晴。この後、映画作家でもある城之内は交通事故で命を落としてしまう。金井勝は以後の2篇を城之内への追悼としての作品に方向転換した。俳句篇『一本勝負の螽蜥』は400フィート11分ワン・ショットの作品。金井自身が自宅を妄想空間に変化させる。最後の詩篇『ジョーの詩が聞こえる』では、城之内の映像作品『新宿ステーション』を引用しながら、金井勝の自宅に城之内の肉声が宿る劇的なラストを迎える。
15日間●この作品は、『写さない夜』を撮って、格好を付けている自分の姿しか写ってないと感じて、もっと自分自身を暴露するという意図で作った。作ろうと思ってみたものの、いざ始めようとすると怖じ気ついて、カメラのアンプの故障と思い込み二日延ばしで始めた。しかし、口の動きと音声が合わないと理由を付けて、カメラの正面に向き合うのを避けて、後ろ向きでの撮影となった。一週間撮って、そのフィルムのラッシュを見て、見たこともない自分の姿に心が動転。更に撮り終わってからも、フィルムを見ることも出来ず、ただ機械的に編集した。出来上がっても、作品として公開して意味があるのかどうか判断できずに、かわなかのぶひろさんと中島崇さんに見て貰い、二人の反応を見てようやく公開する気になった。その後、このフィルムの「自分」と、ビデオで撮影した上半身裸体で、うそ、何言っての馬鹿、違う、とかの否定の言葉ばかり述べる「自分」と、生身の「自分」との三者鼎談というか、話し合いというか、とにかく「フィルム」と「ビデオ」と「生身」とが言葉を交わすパフォーマンスを行い、このフィルムの「自分」を抜けることができた。自分なんてあてにならいよ、という考え方の出発点に立てたというわけ。こういうことは誰かがやっておかなければいけない、それを自分がやったという自負もある。制作1980年。作者、45歳。(鈴木志郎康ウェブサイトより http://www.catnet.ne.jp/srys/films/15days/15days.html
HEAVEN-6-BOX●『HEAVEN-6-BOX』の映像は、論理では決して解析できない霊性に満ち溢れている。大木裕之は言霊ともいうべき言葉のダブルミーニングの不思議な力を駆使し、巫女のように神秘的な映像を紡ぎあげた。観るものが、映像の力によって作者とひとつに結ばれることによってHEAVENの世界へとたゆたうこと。それが、この作品の最大の魅力と言える。(「HEAVEN-6-BOX」 カタログより)
毛髪歌劇● これが、インディーズ・フィルムだ!! これは、強烈な女を強烈に追いかける愛の物語。裏ポルノじゃないよ。歌の抑揚が物語を動かして、ドラマティックに展開するロマン主義の映画。手持ちカメラは手の延長、眼の延長、耳の延長だ。映画そのものに疑いをかけ、映画を破壊するアナーキストの映画なのだ! フィルムに直接毛髪などを貼り付けているが、これはお客様への一種のサービスであって、他意はありません。(帯谷有理、「ヴェリズモからアシッドへ」1998上映会チラシより)
私小説●このショットの後にどのショットをつなぐのかということに、いつも悩んでしまう。描くイメージははっきりしているのに、それを叙述する文体がいまだ掴めない。物語という叙述方法を採り入れれば解消するだろうが、それによって映像の言葉が脆弱になることには耐えられそうにない。そんな思いを絶えず抱きながら1987年から1992年にかけて手がけてきた『私小説1-6』がこの作品のベースとなっている。作品で描こうとしていることをあえて言葉にするならば、"記憶の軌跡"である。しかし具体物を撮るカメラでこれを描くのはとても難しい。(かわなかのぶひろ イメージフォーラム・フェスティバル1996カタログより)