back next
NO.912 作家研究連続講座vol.1-川部良太
「アパートメント・コンプレックス」
7/12(土)13(日)18(金)19(土)

※対談についてのお知らせ
7月12日(土曜日)19:30の回に予定していました。宮沢章夫さんと川部良太さんの対談は、都合により川部良太さんのトークに変更になりました。ご了承ください。

    タイムテーブル

    日付 2:00 4:00 5:00 7:00 7:30
    7/12 - - - - A
    7/13 A B - - -
    7/18 - - A B -
    7/19 - - - - B



      受付

    • 当日700円 会員 500円

  • どこかの誰か

    どこかの誰か
  • 雨の跡

    雨の跡
  • 家族のいる景色

    家族のいる景色
  • ここにいることの記憶

    ここにいることの記憶
  • そこにあるあいだ

    そこにあるあいだ
  • そこにあるあいだ

    そこにあるあいだ
  • そこにあるあいだ

    そこにあるあいだ
  • そこにあるあいだ

    そこにあるあいだ

気鋭の映像作家、川部良太の個展プログラム。 川部の作品は、処女作から一貫して、いるはずの者がいなくなり、いなかった者に出くわしたりする物語である。具体的には公共空間のなかで不意に訪れる失踪、その捜索、立てこもりや不意の出会いなどで、そのスタイルもドキュメンタリーとドラマとパフォーマンスの間隙のような、実に奇妙な位置に被写体の人物達がさらされる。『どこかの誰か』では、任意抽出した顔の平均でできた「平均顔」を探す旅であり、『家族のいる景色』では、作者の家族自身が出演して、母親の失踪という虚構のうえでの関係を演じるといった具合。 目に見えるもので、見えないものごとを表すのがイメージの魅力だとしたら、川部の作品はイメージ化した人物のドラマといえるかもしれない。(澤隆志)

アーティスト・トーク(各回上映終了後。半券で参加できます)



Aプロプラム

どこかの誰か/ビデオ/22分/2004(風澤勇介・藤野史との共同制作)
雨の跡/ビデオ/15分/2005
家族のいる景色/ビデオ/51分/2006

Bプロプラム

ここにいることの記憶/ビデオ/28分/2007
そこにあるあいだ/ビデオ/80分/2008


どこかの誰か

無作為に選んだ100の新聞記事から100の顔写真を切り抜き1枚に合成する。政治家も強盗もスポーツ選手も放火魔も一緒くたになった1人の人物像「平均の人」。同じく100の新聞記事から100の地名を抜き出し経度と緯度を用いて平均値を割り出す。誘拐、殺人、祭り、火事、示された1つの地「平均の場所」。私たちは「平均の 場所」に出かけ、存在するはずのない「平均の人」を尋ねて歩いた。いつの間にか、「平均」という虚構が現実の中を歩きはじめる。イメージフォーラム・フェスティバル2004入選。東京ビデオフェスティバル2004優秀作品賞。

『どこかの誰か』は犯罪者の顔というリアリティのあるものから空想の領域に入り、また空想からリアルな世界に戻って、最後には仮面をつけた人間で終わる。そこで真実と虚構の境目を曖昧にさせ、現代の人間社会と人間の関係を表現している。この作品は、ドキュメンタリーでもフィクションでもない新しい映像の探求を、あた かも探偵のように人間を追って行きながらユニークに見せてくれた。 【李纓(映画監督)イメージフォーラム・フェスティバルカタログより】

雨の跡

ある地方都市の郊外団地に住む少年の、終わりかけた夏休み。今日も窓の外ではあいかわらずセミたちが鳴き続けている。つけっぱなしのTVの向こうでは、朝からずっとどこか遠くの団地で起きた立てこもり事件について伝え続けている。どこにでもあるような団地の風景の中で、事件現場を覆うブルーシートだけが、そこが日常 ではないことをかろうじて教えているかのようだ。 過ぎ去ってゆく風景の中で、少年の視線は静かに日々を見つめてゆく。祖母の入院先の病院にいた老婆、通学路途中の踏切でうろついていた野良犬、駅で見かけた盲目の老人、そして草むらで見つけた白い廃車・・。乾くと消える雨の跡のように、日々は過ぎ去っていくのだろうか。それとも日々が移り変わるのではなく、ただ人々 の視線が移り変わっていくだけなのだろうか。 第一回TOHOシネマズ学生映画祭グランプリ。

家族のいる景色

「ある日、母は近所の公園まで絵を描きに行ったまま、その行方がわからなくなった。なぜ突然、母はいなくなったのか。その原因も理由も全てが宙に浮いたまま、日々が通り過ぎてゆく。残された父と自分はかつての生活を思い返すことで、なんとか日々をやり過ごしていた。そんな生活すら当たり前になりつつある、一年後の ある日、母の描いていた絵だけが見つかり家に帰ってくる・・・。」 家族の一員がある日突然いなくなること、それは誰しもが想像しうる悲しみの家族の景色かもしれない。ここでは「母親の失踪」という架空の状況設定を自らの生活の内に持ち込み、現実の家族関係を演じ直すことで、家族の現実感とは、あるいは映像の現実感とは何かと問うことを試みた。 夕張国際学生映画祭2008入選

ここにいることの記憶

1997年5月、事件が起きたのはある風の強い土曜日だった。希望ヶ丘という名の団地に住む12歳の少年が、友達と遊びに行くと言って家を出たままこつ然と姿を消した。それから10年が過ぎた現在、かつての少年との記憶が現在の団地の風景の中で住人の言葉によって語られる。どうやら、この団地じたい老朽化が進んでいるため に取り壊されることが決まっているようだ。 この映画は、10年前の少年との思い出という物語を、実際の郊外の団地に住む人々が朗読するという形で進行する。失われてゆく風景の中で、存在しない架空の少年の記憶を辿ること。「そこに人がいる」ということの記録と、「そこに人がいない」ということの記憶。

そこにあるあいだ

これはある2組の兄弟についての2つの映画。夏の終わり、ある兄弟が母親の結婚式に出るために東京から実家のある山梨へと車を走らせている。兄弟の父親は若くして死んだために2人にとって父親の記憶はほとんど存在しない。再婚相手の男性についても何も聞かされていない2人は、山梨に向う道中それぞれ父親について思い を巡らせていく。冬の初め、ある兄弟が祖母の入院をキッカケに12年ぶりに再会することになる。両親の離婚によって小学生の頃から離ればなれに暮らしていた2人は、かつて家族がそろって住んでいた東京の家で再会する。昔の生活の記憶が残る場所で、別々に暮らしていた12年間という距離について2人は互いの思いを巡らせて いく。 決して交わることのないパラレルな存在としての2つの物語。映画はその間を行き来しながら、人と人、場所と場所、記憶と記憶の間を見つめていく。

川部 良太|kawabe ryota

1983年生まれ。東京造形大学映像専攻卒。在学中に制作した『どこかの誰か』(風澤勇介、藤野史との共同制作)がイメージフォーラム・フェスティバル2004一般公募部門で入選。以降、映画から映像インスタレーションまで横断的に制作を続けている。主なモチーフとして、「ここ」という場所の圏内から「よそ」あるいは匿名性の場所へとつながる回路としての“団地”や、不在の対象を創作/捜索するための 手がかりとしての“記憶”を扱いながら、見えるものと見えないものの狭間で、映像と現実世界との関係性を考察してい る。現在、東京芸術大学大学院先端芸術表現専攻在籍。'08年より東京綜合写真専門学校、非常勤講師。