日本の実験映像小史

西嶋憲生(イメージフォーラム映像研究所専任講師、映像研究者)

ドナルド・リチー『猫と少年』

第二次世界大戦前に、日本ではヨーロッパの前衛映画運動に促され、さまざまな散発的な現象があった。たとえば『カリガリ博士』のドイツ表現主義スタイルは、溝口健二の『血と霊』(1923)や牛原虚彦らの『感じの好い映画集』(1924)などに現れ、衣笠貞之助の『狂った一頁』(1926)と『十字路』(1928)は最初の本格的な前衛劇映画として日本の前衛映画の古典となった(当時の新進小説家川端康成や横光利一が協力したことでも知られる)。1930年からのフランス前衛映画の輸入公開は小型映画作家に影響を与えた。当時、パテ・ベビー(パテーベビー)やシネ・コダックを使うアマチュア映画愛好家は多く、なかには荻野茂二『表現 An Expression』(1935、9.5ミリ、彩色)のような抽象アニメーションの先駆もあった。荻野の作品は東京国立近代美術館フィルムセンター(現、国立映画アーカイブ)に修復・保存されている。
また、構成主義に興味をもつ美学者中井正一らの『十分間の思索』(1932)や『海の詩』(同、構成・辻部政太郎、撮影・安藤春蔵、色彩音楽・内藤耕次郎、音楽・貴志康一)といった作品も制作された(二作はドイツに留学した作曲家・指揮者貴志康一(1909-37)がドイツに持参し上映したが、貴志が28才で病死して以降、作品の所在は不明とされる。貴志は独自に色彩トーキー映画『春』『鏡』(1932-34)を日本で撮影、ドイツのウーファ撮影所で完成しドイツで公開。近年ベルリンのフィルムアーカイヴで発見された)。ほかに、ロシアの革命的映画にイデオロギー的影響を受けた「プロキノ」(日本プロレタリア映画同盟, 1927-34)は、9.5ミリや16ミリを使ってニューズリールや政治映画を製作したことも特筆される。しかし、これらの動きは日華事変(1937)の翌年ごろから、映画機材の輸入・製造の中止、フィルムの不足による許可制、国家検閲の強化により途絶していった。

戦後、もっとも早く「実験映画」(戦前は「前衛映画」と呼ばれた)の動向を紹介したのは、アンドレ・ブルトンやマルセル・デュシャンの友人で、シュルレアリスム詩人であり卓越した近代美術の批評家だった瀧口修造である。彼は、1947年にはマヤ・デレンやホイットニー兄弟を雑誌記事で紹介していた。瀧口の周辺にはバウハウスやミュージック・コンクレートに関心を持つ若い芸術家たちが集まり、1951年「実験工房」が結成された。その中からフィルムへの直接描画による抽象アニメーション 『キネ ・カリグラフィ』(1955、オリジナルは紛失、再制作版あり)が作られ、また 同年、実験工房の武満徹(作曲家)や山口勝弘(造形作家・ビデオアーティスト)に若きドキュメンタリスト松本俊夫を加えて35ミリ・イーストマンカラーの前衛映画 『銀輪』(日本自転車工業会のPR映画、 フィルムは長く紛失していたが2005年に海外版が発見された)が作られている。これらが戦後の実験映画の出発点ともいえる。
この政治的に混乱した戦後復興期、美術界に数々のアヴァンギャルドが噴出したが(具体美術協会、ネオ・ダダ、読売アンデパンダンを始めとするさまざまなアンデパンダン展)、学生映画・インディペンデント映画・アマチュア映画の中にも新しいスタイルの表現が次々と現われ始める。作り手は必ずしも映画作家だけではなく、さまざまなジャンルのアーティストたちがいた。
そのもっとも早い例には1960年の、舞踏や詩を取り入れた細江英公(写真家)の『へそと原爆』、谷川俊太郎(詩人)と武満徹の『×』、劇作家寺山修司の『Catology・猫学』(紛失)などがある(寺山修司はその後も劇映画のほか70年代に多くの実験映画を連作した)。学生映画では、日大映研(城之内元晴、平野克己、足立正生ほか)によるダダ・シュルレアリスム的ともいえる『釘と靴下の対話』(1958)『プープー』(1960)『鎖陰』(1963)等があり、不条理な社会への批判のメタファーに溢れる作品だった。それらは、のちに金井勝が1960年代後半から手がける破天荒な前衛劇映画『無人列島』(1969)や『Good-Bye』(1971)にもつながる要素があった。
アマチュア映画のラディカルな部分からは、大林宣彦(1938-、現在は日本の代表的映画監督の一人)、高林陽一(1931-2012、京都在住のインディペンデント映画監督)、飯村隆彦(1937-、1966年アメリカにわたって以来、構造的ミニマル映画の第一人者として知られる)といった作家たちが台頭して、パーソナルなアート表現として8ミリを使い始め、63年には「グループ・アンデパンダン」を結成した。大林宣彦の『Complex・微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って葬列の散歩道』(1964)や『Emotion・伝説の午後=いつか見たドラキュラ』(1967)はコマ撮りを多用した異色のスラップスティック・アヴァンギャルド物語映画だった。彼はホラー映画『ハウス』(1976)以来、メインストリームの劇映画監督となったが独特の作家性と実験精神はもち続けた。
『The Japanese Film: Art and Industry』、『小津安二郎の美学(Ozu: His life and Films)』『黒澤明の映画(The Films of Akira Kurosawa)』などの著書で世界的に知られる日本在住のアメリカ人映画評論家ドナルド・リチー(1924-2013)は、彼自身マヤ・デレンやケネス・アンガーの影響で8ミリ映画を作るようになり(のち16ミリ)、たぶん日本で戦後最初に見られた西洋の実験映画は彼の8ミリ作品と思われる。彼は50年代から『犠牲』(1959)『猫と少年』(1966)『五つの哲学的童話』(1967、50分)といった詩的でパーソナルな映画を発表している。ドナルド・リチーは同時に、日本実験映画の海外への熱心な紹介者でもあり、和歌や俳句といった日本の長く豊かな詩的伝統と日本実験映画の詩的特性とをしばしば比較して書いている。1966年にニューヨーク近代美術館で日本の実験映画がおそらく初めて上映されたときリチーは次のように書いた。 「日本は俳句の国だが、俳句は表現が簡明かつ内面的で意味は暗示的である。コミュニケーションよりコンシデレーション〔熟考〕が重要なのだ。日本の実験映画は、1920年代後半以来明らかだが、伝統的に観客を気にせず作られてきた。それは“いけばな”のように一つのオブジェであり、称えたり疎んじたりする対象なのだ。」(拙訳) そうした詩的伝統を、我々は安藤紘平や居田伊佐雄、 かわなかのぶひろ、ほか多くの作品に見出すことができる。
批評家・理論家としても活躍した松本俊夫は、大島渚をリーダーとする「松竹ヌーベルバーグ」(日本の大手映画製作会社内での怒れる若者)に対するドキュメンタリーの側のカウンターパートだった。松本俊夫はルイス・ブニュエルやアラン・レネに触発されながらアヴァンギャルドとドキュメンタリーの統合を主張し、自ら『安保条約』(1959)『西陣』(1961)『石の詩』(1963)などの実験的ドキュメンタリーをインディペンデント映画作家として発表した。彼はドキュメンタリーだけでなく、TVドラマや長編劇映画(『薔薇の葬列』1969から 『ドグラ・マグラ』1988まで)から大規模映画ディスプレイの演出まで手がけ、同時に1970-80年代には、最新の電子的・光学的映像処理技術を生かした実験映画を連作して日本の代表的な実験映画作家の一人ともなった。東京大学で美学を学び、ナムジュン・パイクの同級生だった松本俊夫は、日本におけるビデオアートの先駆者でもある(『Magnetic Scrammble』 1968)。
松本俊夫も含めた多くの映像作家に大きなインパクトを与えたのは、1966年、草月ホール(勅使河原宏の父・蒼風の草月流のいけばなのアートセンター)で行なわれた「世界前衛映画祭」(シネマテーク・フランセーズ館長アンリ・ラングロワのセレクト)と「アンダーグラウンド・シネマ/日本-アメリカ」という2つのビッグ・イベントだった。とくに アメリカ・アンダーグラウンド映画の上映は66-67年に数度にわたって行なわれ、スタン・ブラッケージ、スタン・ヴァンダービーク、ブルース・ベイリー、ポール・シャリッツ、ロバート・ブリア、ジョナス・メカス、エド・エムシュウィラーといった主要作家の作品を紹介、熱狂的な観客の反応があった。
ちょうど1964-65年にかけて、簡便なカセット方式の8ミリが、シングル8、スーパー8の二方式でカメラとフィルムが発売され(映写機は共通)、8ミリブームがわきおこった時期でもあった。若い映画作家、大学生、美術家、グラフィック・デザイナーなどが、次々と「アンダーグラウンド」タイプの実験映画を作り始め、東京でフィルムコンテストや作家団体の結成も行われた。作家団体は68年「ジャパン・フィルム・メーカーズ・コーポラティヴ」が登録作家32人で結成されたが、すぐに分裂し、「アンダーグラウンド・センター」をへて「イメージフォーラム」が配給・上映・教育活動の中心となった(とくに若い映像作家の新作を上映するショーケースの果たした役割は大きかった)。

かわなかのぶひろ『スイッチバック』

急激な経済成長、大学での過激な異議申し立て運動、アンダーグラウンド文化ブームの加熱の後、1970年代の日本で実験映画運動は次第に定着し、各地で地道に制作・上映活動が続いた。アンダーグラウンド・センター(のちイメージフォーラム)の設立者である映像作家かわなかのぶひろは、そのもっとも重要なオーガナイザーでありスポークスマンだった。興味深いのは、1970年代半ばから アメリカやドイツの実験映画の紹介はぷっつり途絶え、日本の実験映画は他国と交流を欠いた状態で10年ほど運動が持続、その時期に個々の映画作家が表現を洗練し、また独自なスタイルを確立していったことである。そのなかには、詩的日記(メカスの影響を受けた詩人鈴木志郎康ら)、物質的デコンストラクション(フィルムの物質性を主題化し続ける奥山順市ら)、コンセプチュアルな知覚の攪乱(山崎博、中島崇、瀬尾俊三ら)、フェミニズム的自己省察(出光真子ら)などがあったが、いずれも「映像の特性の探究を通して」独自な映画的世界を作ること、プライベートな視覚の重視、という点は共通していた。
なかでも、かわなかのぶひろはメタフィルム的なアプローチ(映画の構造や技法の主題化)から出発し、早くから「ファウンド・フッテージ」(リュミエールやニューズリールの再撮影)を自らのスタイルに取り入れていた。その展開のなかで友人同士の映像の交換(他者のフィルムの引用)として『映像書簡1-4』(1979-82)を萩原朔美と共同制作、さらに『私小説1-6』(1987-92)では自分の8ミリ日記を再撮影し、フィルムを記憶の断片のように使うことでみごとな達成を成し遂げた。『映像書簡』のようなイメージの「往復書簡」は、日本の古い形式である連歌にもつながるが、これ以降他の映画・ビデオ作家たちにも受け継がれポピュラーな一形式となった(その最良のものは寺山修司と谷川俊太郎の 『ビデオ・レター』1982-83であるが、83年の寺山修司の死により中断された)。
アニメーションでは、1960年代から久里洋二(1928-)を中心に新しい動きが始まり、続いて古川タク(1941-、イラストレーター)や田名網敬一(1936-、グラフィックデザイナー)、そして相原信洋(1944-2011、エネルギッシュな教育者・指導者でもあった)が日本の実験アニメーションに活力をもたらし、その影響で1980年代にはすぐれた実験アニメーション作家たち(IKIF、浅野優子、黒坂圭太、インタラクティブなコンピュータアートの岩井俊雄など)が登場した。

伊藤高志『SPACY』

こうした1970-80年代の蓄積はやがて海外で高い評価を得た。また1980年以降にデビューした若い才能たちには、寺山修司の「天井桟敷」劇団員で寺山映画のセットデザイナーでもあった山田勇男(『銀河鉄道の夜』1982 『青き零年』1985)、九州芸術工科大学(現・九州大学芸術工学部)での松本俊夫の教え子だった伊藤高志(『SPACY』1981、『BOX』1982)や森下明彦(『Xénogénès』1981など、重要なメタフィルム作家である)が活躍するといった影響関係が珍しくない。現在ではさらに彼らの影響を受けた次の世代が活躍を始めている。
そのなかで、京都ヴォワイアン・シネマテーク(『生態系』シリーズの小池照男や桜井篤史ら)や福岡のFMFフィルム・メーカーズ・フィールド(ノトヨシヒコ、福間良夫、宮田靖子ら)を始め、各地で実験映画の上映や制作をする個人、グループの活動も1990年代に活発化、「VIEW」という全国ネットワークも形成された。また、多摩美術大学、東京造形大学、京都芸術短大(のち京都造形芸術大)、京都精華大学などでも学生の映画やビデオの制作は盛んで、毎年のイメージフォーラム ・フェスティバル(東京)のコンペティションと並び若い作家たちを輩出している(その後、1990-2000年代に芸術系大学での映像学科、アニメーション学科の創設が相次いだ)。
1980-90年代の若手作家たちは、ビデオだけでなく、扱いやすい8ミリ(その機材はすでに中古でしか入手できなかったが)をしばしば利用し、軽い8ミリカメラならではのスタイルでヴィジュアル・イメージの幅広い言語を開拓した。全般に、1970年代の形式や構造への関心からナラティブへの回帰の傾向があり、そのために折衷的なスタイルと見えることも多かった。別の見方をすると、パーソナル・ドキュメンタリーまたは「エッセイスト的映画」(マイケル・レノヴの用語)に接近していた面もある。だが、そこで追求される主題は、従来なかったほど深くあるいは赤裸々に自己の存在条件を問おうとするもので、そのために自身の身体をメタファーに使ったり、ゲイ・セクシャリティに言及する映画も出てきた。彼らはやがて 1970年代の偉大な先駆者たちのオリジナリティに追いつき、新しい映像表現の地平をきっと形成することであろう。
(以上の初出は、1994年オーバーハウゼン国際短編映画祭のカタログ『Retrospective of the Japanese Short Film』所収の”A History of Experimental Film and Video in Japan”で、海外向けに書かれたもののため、翻訳には加筆訂正した)

(追記、2018)
1980年代から1990年代にかけては女性作家の台頭とも相まって自己や家族のアイデンティティやトラウマを探究する作品が増え、フィクションやことばの多用も目についた。この時期、大木裕之(1964-)、和田淳子(1973-)、寺嶋真里(1965-)、末岡一郎(1965-)、帯谷有理(1964-)、芹沢洋一郎(1963-)、牧野貴(1978-)らは新たな個性的作風を提示した。
1995年に生誕100年を迎えた映画だが、その後の20数年で映画・映像メディアをめぐる状況は大きく変わった。もっとも顕著なのはデジタル化の進行だ。デジタルビデオカメラやスマホの普及、パソコンでの動画編集、プロジェクターの高画質化、ネットの動画共有や配信のサイトの興隆、映画館のデジタル上映への移行(フィルムからDCPへ)など、映像環境やメディアの本質を変えてしまうような変化が続き、表現の拡散と多様化も一段と進んだ。美術の領域でも映像が多用され、インスタレーションという形で空間的に展示される映像作品が急増し、時間・空間の表現としての映像という意味で「映像アート」とも呼ばれるようになった。
パソコン編集は作業が簡便なため、規範を逸脱しない滑らかな分かりやすさへ回収されやすい。2000年代に入り、内外の実験映像の映画祭で、若い世代の表現から大胆な先駆性や形式的実験が薄れた気がすることとこれは無縁でなかろう。一方でデジタル時代の「手の痕跡」の消滅も気にかかる点だ。CGが導入されるまで、映画の合成や特殊撮影には手仕事的な痕跡(ぎこちなさ)が残り、それが魅力であり驚きでもあった。特撮におけるストップモーションの動き、ズビッグ・リプチンスキーが『タンゴ』(80)でみせた信じがたい多重合成などは、デジタル時代には痕跡のない滑らかなイリュージョンと化してしまう。劇映画でCGが多用された結果、CGなら何でもできるという錯覚が、映画メディアの驚異(最初は「映画=動く映像」それ自体が驚異にほかならなかった)を失わせてしまった側面すらある。
こうした時代だからこそ意味をもつと思えたのが、山村浩二(1964-)の『頭山』(2002)だった。アヌシー、ザグレブ、広島の三大国際アニメーション映画祭でグランプリ、アカデミー賞短編アニメーション部門ノミネート(日本人初)と内外で高い評価を受け、とくにアカデミー賞ノミネートはトップニュースにもなった。1980年代後半から個人でアートアニメーションを作り続けてきた山村浩二が、落語に基くナンセンスな話を、手の痕跡と個人的イマジネーションにより造形した作品だった。

和田淳『鼻の日』

同様に、国際映画祭だけでなく内外の美術館でも展示される石田尚志(たかし、1972-)や辻直之(1972-)、和田淳(1980-)らの作品にも、分業化された商業アニメーション体制では不可能な表現形態や発想がある。デジタルな映像環境において、こうした個人的な手技や創意、パーソナルゆえの魅力をいかに作品化しうるかが今後より大きな課題となろう。
そこには自ずとメディアへの自問や作者自身の存在への問いが含まれ、ときに単純な解釈を拒む多義的な表現が生まれる。その源流にあるのは、劇映画とドキュメンタリーという二大カテゴリーとは別の、第三の詩的な表現の系譜である。それは(かつて「前衛映画」とか「実験映画」と呼ばれた)ストーリーテリングよりイメージの表現に重点を置くオルタナティブで実験的なカテゴリーであり、メインストリームや規範に抵抗する対抗映画(counter cinema)という面も持っていた。
そこには、アートとしての映画・映像だけでなく、作品に込められた作者のパーソナルなまなざしや声があり、映像を消費し忘却していく文化に対する批判も見出すことができるのである。
今日、誰もが簡単に映像を作りネットに流せる環境があることは、誰もが「作家」「芸術家」になれることを保証するわけではない。ジョナス・メカスはかつてこう書いたことがあった。「芸術を通して自己表現の機会を持つ民主的可能性が誰にでもあるという事実は、われわれの誰もが自身の“芸術”から、個人的なセラピー的行為を超えたもの、他者にとって意味あるものを生み出せるということを意味しはしない」(『メカスの映画日記』1967年10月26日付)。この言葉は予言的であるし、今日さらに有効であろう。