プログラムA プログラムB プログラムC プログラムD プログラムF あとがき

プログラムA

■「かえっておいで。」  江川布志子/ビデオ/15分
冒頭、足の指でもう片方の踵のあたりを掻く動作が、アップで捉えられる。映画というのは、あらすじとは関係なく、こういうなにげない動作に強く惹きつけられるものである。作者はそのことを理解しているのだろう。ひとりの女性のたんたんとした日常をそうした動作を通じて寡黙に描き出している。主人公の女性は恋人と別れたのだろう。公園の池で顔を洗い、着信したケイタイを水の中に沈める。河畔に出てネックレスを河に放り込み、橋の上からショルダーバックを河に落とす。身に付けている記憶のひとつひとつを棄ててゆくそのプロセスを魅力的なアップを織り交ぜて描くのだ。おぬしできる!

■「fractus」  佐藤光恵/ビデオ/3分
タイトルの意味は骨折、もしくは(固いものが)砕けることとある。それにしてはこの作品、均整がとれている。壁紙を思わせる背景に曼荼羅状の美しい模様が踊り、やがて多面分解されて増殖。レインボーカラーの曼荼羅が回転しながら増殖を繰り返し、やがて石垣や緑の葉ふつう実写などは交えないものだがやさざなみなどが合成される。こういうアニメーションの場合は、作者はそこからはみ出すことによって、なんとか作品としてのふくらみを呼び込もうとしているにちがいない。それが成功しているとは言い難いけれど、しかし均整のとれた美しさよりも作者の挑戦する姿勢を評価したいのだが。

■「On The Lotus」  古川明大/ビデオ/25分
作品のアタマにネパールの歴史が字幕で示される。前・国王家族の全員を暗殺した現・国王は、民主主義の美名の元で独裁体制を敷いているという。もっともこの作品、それに対して直接アクションを起すわけではない。現地で日本語を教えている青年の授業の模様を捉えたり、平和集会に参加したり、貧乏人にたかりにくる毛沢東主義者をぼやく現地人をインタビューしたり、一転して「原爆を語り継ぐ会」の日本人の体験をドキュメントしたり、なんとも問題意識のてんこ盛りである。作者は、作品にするためにはそれを避けて通れないと考えているのだろう。むしろ普通の生活をじっくり見たかったね。

■「His birthmark」  中村樹里/8ミリ/5分
指先が床を引っ掻いている。本を読みながら無意識に床に指を這わせるこの導入部はたくみである。主人公の女性は2年前に好きだったひとの胸についた痣(birthmark)が忘れられない。友人の女性は新しい恋を見つけてアメリカへ旅だったけれど、彼女はTシャツの胸についた痣のような染みをかかげて、愛しそうに眺めている。Tシャツをポスターのように壁に掲示して過去に思いを駆せるのだ。こうしたちょっとしたことが、恋愛の感情を観る側に記号としてではなく伝えるのである。主人公は彼の痣を忘れられるだろうか、というけれど、なあに、新しい恋が生まれればすぐに忘れますよ。女性は。

■「むちなむちつじょ」  田中沙絵/ビデオ/5分
劇場のスクリーン前に立つ女性。映写される映像の前を、遮るように行きつ戻りつする。パフォーマンスなのだろうか…。やがてステージの下でごろごろと転がり、8ミリカメラのケースを開けてカメラとダンスをはじめる。解説によると彼女は、なんとか作品の端緒を開きたいともがいている様子である。スクリーンに映し出される映像は、炸裂する花火になり、彼女は三脚を振り上げて傍らの映写機に思いきり振りおろす。何度も何度も振りおろされる三脚の下で、砕ける映写機。そうなのだ、作品のために何かをしなければならないという思いが、破壊衝動を引き起こしたのだ。その気持ち、わかるわかる。

■「花は知る」  山田智子/ビデオ/10分
オトコとオンナである。二人は電車に乗って自宅に戻ってくる。オトコは煙草を喫いつけて、オンナは奥の部屋で着替えているあいだに、いつの間にかオトコは別の女と入れ替わり、あたかもオンナの内心の声のように「妊娠しているでしょう」とか「結婚しといたほうがいい」とか「早く子供を生んだほうがいい」とオンナに迫る。オンナが押し入れの中に身体を入れると、そこは電車の中で、赤いキモノを羽織ったオトコがオンナの前に現われる。なんだか迷宮へ迷い込んだような展開である。ホームを通過する電車越しに、執拗に捉えるオンナの映像が印象的だ。結局は電車の中での夢だったのだが…。

■「夜中の三時」  野上寿綿実/ビデオ/6分
タイトルが描き文字でキチンとデザインされている。タイトルは作品の顔である。このセンスが、そのまま作品の内容であると言っても過言ではない。窓辺に置いたグラスの中に雨が降っている。夜中に目覚めたオトコが、鼻をひくひくさせながら、眠そうに中空を眺めている。夜半過ぎの雨は降りつのり、部屋中にぽつりぽつりと雨垂れが落ちてくる。雨垂れが落ちるイメージが丁寧に描かれているところが、じつに嬉しい。渋い色彩のセンスと、ユニークなキャラクター。ヨーロッパの旧いアニメーションを想起させる。夜半過ぎに降る雨のけだるさが、作者のセンスによって生きいきと再現されるのだ。


プログラムB

■「ノマ」  山崎大輔 / 8ミリ / 3分
神社にお参りをする女性の姿をスチールのアニメーションで描く試み。発明時代の映画は、動きをつくりだすためにさまざまな工夫を凝らし、たとえば江戸末期の「写し絵」などは、動かない絵に動きを与えるために複数の絵を素早くチェンジして“動き”のイリュージョンをつくりだしたものだ。動くことがあたりまえになった今日では、あらかじめ動くものから、逆に動きを奪うことによって“動き”の感覚をひきだそうとした作者のコンセプトはいい。しかし、その“動き”の探求に徹することなく、唐突に墓参(主人公は死んだのだろうか)に展開してしまうところがぼくにはいささか残念だった。

■「一日四季ツアー」  柴崎萌 / ビデオ / 3分
一日のうちに四季が移り変わったら…。そんな突拍子もないことを思いついた萌クンの発想力に拍手。絵に描いた花の中を実写のニンゲンが歩くという合成も、印象派の絵画のようでファンタスティックだ。けれども四季の表現がひまわりや紅葉という程度では折角の発想が生かされない。もう一工夫欲しいところである。花をかき分けて少年時代の自分に出会い、何かを渡されるのだが、なにを渡されたのか判然としないところも勿体ないね。やがて雪になり雪の中で、もう一人の自分に拳銃を向けられるという展開もいささか唐突。絵の中の人物と実写で描かれた作者が交歓するという展開が見たかった。

■「夜」  植竹直人 / ビデオ / 10分
麻雀の卓を囲む4人の同級生。主人公は明日は入試という設定だ。こういう時ってあえて遊びたくなるんですよね。シリトリをやりながら麻雀を打つという出だしはなかなかいい。単調になりがちなゲームも、カップ麺を食べたり、途中停電にするといった工夫を凝らすことによって救われている。作者は、講評時の作品をすべて撮り直したのだ。アップを効果的に差し挟んで、テンポよく運ぶあたりは見違えるような仕上がりになっている。ラスト、牌を積み込んだだけで九蓮宝燈という幻の手を引き当てる。主人公はお祓いのため(だろう)、引き当てた腕を切り落してしまうというところはちと性急か。

■「by train」  山田和久 / ビデオ / 15分
電車内で文庫本を読む男性。ホームで経済紙を読んでいる男性。ipodで英語のリスニングをする女性。特に関連があるわけではない。互いにそれぞれの世界に没入している。武蔵小杉から渋谷までのあいだに同じ電車に乗りあわせたそれぞれの乗客が、それぞれの世界に没入している様子を並列して描くのである。経済紙を読むオトコのバックにはJAZZが流れ、文庫を読むオトコには現実音が、ipodのオンナには英語が流れているが、それも途中からサイレントになる。なぜそうなるのか法則が判然としない。そこのところを関連づけて、客観的な観察から人物の心理に一歩踏み込んで欲しかったなぁ。

■「寝息のメロディ」  中島踏子 / 8ミリ / 3分
ドローイングアニメーションである。花のような線が泡になり、泡の中に無数の泡が生まれ、顔に変化し、鳥になり、太陽から果実へと展開してゆく…。いわゆるメタモルフォーゼをくり返すこの作品、鼻ちょうちんを出しながら寝ているヒトの、とりとめのない夢みたいな世界を描いている。アニメ教本のせいなのだろうか、初心者のアニメーションには、こういうメタモルフォーゼがなぜか多いのだが、もっと奔放に、もっとダイナミックに、空想力のかぎりを尽くして描いて欲しい。全体に露出がオーバーだったこともせっかくの丁寧な絵を台なしにしていましたね。タイトルと「踏子」という名前が好きっ!

■「孤島の歌」  栗田紅 / ビデオ / 20分
「人間は孤独な島だと父はいった」という冒頭のコトバがとても深い。作者の父は肺を移植しなければ呼吸ができなくなる難病で入院中。作者は自分の肺を提供しようかと考える。しかし怖い。そんな揺れる気持ちを映像に託す。壁の影や花々や、水に浮かぶ泡ぶくやなにも映しださない映写機など。これは実話なのだろうか? だからいささかためらいが感じられ、赤いドレスの女性と黒いドレスの女性をダブルエクスポジュアで描き、自分と自分の葛藤を視覚化した素晴らしいシーンがありながら、あちこち迂回するので話しが掴みにくい。自分にかかわるこの作品は重要です。もう一度編集しましょう。

■「奇体服」  長谷川栄佑 / ビデオ / 14分
奇態な色彩のカタマリがくねくねとくねりながら街を往く。中にヒトが入っているのだろうか。どこかでバレるのではないかと目を凝らしていても、そういう気配を見せないように縫いあわされているところがいい。素材は(たぶん)日常着ている衣裳なのだろう。しかし動くオブジェのように改造されたそれは、その得体の知れなさによって日常を異化する。もしもカメラがなければ、通行人はギョッとするにちがいない。深夜の歩道で見かけたら怖いだろう。奇体服が、さまざまな場所でくねりつづけるだけでもよかった。中から全裸の作者が出て、カメラクルーも全裸で無人の野原へ行くラストは惜しい。


プログラムC

■「ボンと私」  池浦由起子/ビデオ/20分
作者は、毎週イメージフォーラムへ通う電車の窓から外を眺めていて「ボン」という得体の知れない看板を発見する。マンションの一室にかかげられた、あるいは「ボソ」かも知れないこの看板に興味を惹かれて見続けるうちに、やがてその部屋の住人が女性であることを発見。「ボン」の意味をさぐるためマンションを訪ねる。じつは「ボン」は大正15年生まれのお婆ちゃんが経営している洋裁店であった。電車の窓からの偶然の発見を、作品づくりという必然へと転化させる作者の真摯な姿勢がやがてわくわくするような展開を生むわけであるが、日常ををカメラの目で見るこの姿勢に拍手を送りたい。

■「萩原」  下江隆太/8ミリ/12分
う〜ん、困った。この作品の尻尾をどうやって掴めば良いやら、ぬるぬるねばねばしたナマズのようで掴み所が無い。どう掴めばよいのか、正直言って途方に暮れている。殴り書きのタイトルはフレームからはみ出しているし、シーンとシーンのつながりも、まったく考慮されていないようだ。撮った映像を片っ端から出鱈目につないだように見えなくもないし、作者のなかでは意味を持っているのかも知れないけれど、それがどうにも掴めないのである。電車や、飛行機雲や、線路や、銅像や、冬枯れの木々と、裸電球を身体に照射する作者の姿は関連があるのか。とりわけなぜ「萩原」なのか。謎である…。

■「セツナ」  塩出太志/ビデオ/15分
道路に倒れている男が立ち上がってタイトル。どこまでもつづく塀に寄りかかる男の上空で、雲が凄いスピードで流れてゆく。肉眼では見ることのできないストレンジな風景を合成によってつくりだす手腕はなかなかだ。雲が流れる階段を登りつめると電車が走っていたり、新宿西口の地下通路で立ち止まる男の周囲の時間がハイスピードで流れてゆく映像は、あたかも夢の残像に似て、どこか懐かしい。作者によると「この世とあの世の間のような、少しおかしな世界」を意図したようだが、海の向こうの水平線に雲が流れるさまなどは、どこかで見たような奇妙な既視感を与えてくれる。はて、なぜだろう。

■「映像洪水」  北野裕希/ビデオ/8分
「親が子供を殺し、子が親を殺す時代に、ぼくが何をできるのか考えてみました。結果、何もできないということが分かりました」という冒頭の言葉についで、高圧線の鉄塔へよじ登る作者。何も出来ないから身体を張って何かをしようというのだろうか。ぼくもカメラを持つと無茶をやるほうだけど、それにしても高圧の電流が流れている鉄塔へよじ登るという無謀さには肝が冷える。「いい画撮りたい」と呟きながらどんどん上がっていく作者。登りながら小学6年のときの遠足で、鹿が吐いたというニセのエピソードを語ったり…。事故がなくて良かったけれど、こういう危険は2度と犯さないで欲しい。

■「やがて、去り行く」  笠井健郎/ビデオ/15分
津軽平野の冬景色である。作者は下北半島をカメラと連れ立って旅をする。雪原の中の電線やオブジェのような交通標識や、雪に埋もれた墓や、鄙びた波止場の飛行機雲などをたんたんとカメラに収める。ナレーションが入っているけれど、ボリュームが小さいせいか聴き取れない。作者によると「これは憧れの人へ送るファンレター」だそうだが、彼なりの「北帰行」といえよう。街へ行き、酒場街をトラベリングするが、なぜか人っ子ひとり見当たらない。人の姿は慎重に排除されているのである。そのせいだろうか、全編にわたって、時間が停止したような感覚を覚える。荒涼たる心象風景を見るようだ。

■「メッセージ」  岡崎理子/ビデオ/8分
半年前、66才になる実家の父親が心筋梗塞で倒れる。倒れる前の父親は、町内会の会合などで忙しく、実家の書店はほとんど母親任せといった状態だった。典型的なワンマン家庭だったわけだが、入院以降その体制は一変する。なんだか急に弱々しくなった父親に、作者はカメラを携えて密着する。兄や母や妹にインタビューする。しかし作品としてはいささか突っ込みが甘い。家族となると客観的になりきれないのか、作者自身の父親に対するスタンスも明示されない。めっきり弱々しくなった父の姿を自分がどう感じているのか、まず自身を問い詰めてから描いて欲しい。きっといい作品になりますよ。

■「四角い眼」  田辺泰大/ビデオ/10分
香川県で発生した幼児虐待事件のニュースが、妙なイントネーションのアナウンスで流される。長男が可愛かったから次男には食事を与えなかったという。ニュースを聞きながらローストビーフを食べる主人公。紐でくくられたローストビーフは、網タイツを連想させるとばかりに、画面には網タイツの女性が登場し、網タイツを掴み、肉をライターで炙ると、ヌードの女性が登場する。映像による連想ゲームとでもいおうか。作者はストレンジな映像世界を遊戯のように愉しんでいるのだ。エフェクトを使っているが通り一遍ではないし、さりとて予定調和に甘んじてもいない。この作者、なかなか深いぞ!


プログラムD

■「Femme Homme」  宮越泰子 / ビデオ / 5分
男性と女性をめぐるさまざまなデータが、クロード・ルルーシュの名作『男と女』のメロディに乗ってつぎつぎと描きだされる。たとえば平均寿命:女85、男78。あるいは今年海外旅行に行った:女:43,2%、男19,4%。はたまた、離婚したいと思ったことがある女:69%、男:39%。たんたんと映しだされるデータを見て、作者のねらい通り、ドキリとさせられたり、ニヤリとさせられたり。データのバックにある画面も、女性誌V.S男性誌、おかめV.Sひょっとこ、婦人用カミソリV.S男性用シェーバーなど工夫が凝らされている。シンプルだが、見ようによってはオトコには恐ろしい作品。

■「sight」  渡辺市多郎 / ビデオ / 10分
窓辺のソファに座る女性と、8ミリで撮影された夕景の森や花。光の中に立つ女性のシルエットや風に揺らぐ木の葉や、黄色い帽子をかぶった女性を噴水越しに捉えたポートレイトがじつに鮮やかだ。しかし、ビデオで撮影された室内のショットと8ミリで撮影された戸外のショットが、まるで水と油のように溶け合わない。8ミリで撮影してビデオで仕上げる方法はいまやスタンダードとなりつつあるけれど、互いの画質を溶け合わせるための、たとえば照明や色彩などの工夫を考えて欲しい。ナレーションとして朗読される少年をめぐるちょっと残酷なテキストと画面が組み合うような追加撮影が欲しいところ。

■「世界」  冨田裕子 / ビデオ / 7分
ビニールから突きだした手のアップ。手をつないで歩く男女の主観ショット。住宅街の消え残った雪。指先でつぶす赤い南天の実。などなど、この作品には観る側を惹きつける素晴らしいショットがたくさんある。同時に、女性がつくったスープの中にちいさなキューピーが浮んでいる象徴的なシーンや、ビー玉をかざす指に、手をつないで歩く主観ショットをダブらせたりする良くないシーンも少なからずある。編集する過程で、パソコンのエフェクトを多用したために、いいショットが生かされていないところも残念ですね。専科に来て、カットとカットをストレートにつなぐ呼吸をマスターしませんか?

■「幸せな記憶」  後藤天 / ビデオ / 10分
上映前に作者から観客に、作者が赤ん坊のとき両親と撮った倖せそうなポートレイトが配付される。作品の冒頭「好きなように破って下さい」と字幕が入り、会場のあちこちで写真を破る音が響く。作品は作者の成長過程が写真で提示され、それにともなって1)快活なサッカー少年の幸せな成長過程が。2)父の暴力におびえ弟をいじめる暗いねじれた少年像が。3)幼いときに父が溺れ死に、サッカー部ではいじめを受け、などなど三通りのナレーションが加えられる。自身をフィクション化するこのひねりは素晴らしい。しかもナレーションを担当しているのは、クレジットによると両親と弟なのだ!

■「少年の夢が叶った365日「−死天麗羅ー」」  今井嘉江 / 8ミリ / 8分
作者は、ある中学校の相談室に勤務する相談員。相談室を訪れるいささか規格はずれの少年や少女たちとアートについて話したり、仲間として遊んだりしている。そんな日常の中で、彼や彼女たちと8ミリを使って作品を手がけるようになったプロセスが、作品の中で描かれている。とりわけアオヤマくんという茶髪の少年が描いたイラストを使って立体アニメーションを試みるくだり。作品としてはまだまだ拙い。けれども、いい作品は世界中にたくさんあるが、アオヤマ少年と作者の心の交流のような、いいコミュニケーションはなかなかない。それを8ミリが媒介したということは作品の巧拙を越えて感動的。

■「Rules」  難波阿丹 / ビデオ / 15分
電車が通過するたびに細かく振動する高架下のアパートに住んでいる主人公。なにをするでもなく日がな一日ごろごろしている青年は、どうやら失踪した母親との再会を妄想しているらしいのだが、そんなストーリーはさておき、この作品の映像の呼吸は素晴らしい。ぎりぎりに抑えた照明。ヌードルスープをフォークで食べて、しばらくフォークを見つめた後、壁に投げつける演出の間。テーブルのグラスが電車の振動で少しずつズレて、テーブルから落ちる息づまる瞬間。そんな映像のリズムと、語呂合わせのような呟きのリズムが緊密に結ばれているのだ。高架下という絶妙なシチュエーションに拍手。

■「ウミガメ」  橋本樹 / 8ミリ / 8分
「ある一人」という字幕で、髭を剃ることにオブセッションを抱いているオトコ。「ある一人」という字幕で、オトコの(らしい)本や大学ノートを棄てにゆくオンナ。そんな二人の心理的なこだわりをポエティック描いた作品。8ミリであるが撮影はしっかりしている。それも当然、作者は研究所の28期生で、この年はたまたま専科が開講されなかったため、29期に居残ったのだ。とりわけラストの雪が舞う海岸にシェーバーや大学ノートを次々と埋葬するシーンは寂しさと荒々しさが交錯して圧巻。オトコとオンナの交錯も描いて欲しかったね。今年はなにがなんでも専科を開講しますので来ませんか?


プログラムE

■「lose,lost,lost」  堀宏行 / ビデオ / 15分
廃屋がある森の中で、女性ダンサーが踊る。廃材や蝶や柔らかな光が静謐な時間を切り裂くダンスと対比されるように描かれる。ダンスを被写体とした作品は、しばしば作者の側が被写体の力に引き込まれてしまいかねないけれど、この作品は被写体としっかり対峙している。そればかりか、地中から出て来た蝉の幼虫が、樹の幹をじりじりとよじのり脱皮をする息詰る模様を対峙させているのだ。痙攣的にもがく蝉の脱皮と、ダンサーの痙攣的な振り付けが静謐な森の中でひとつに溶け合う瞬間は、エコロジーなどという口当たりの良いコトバでは捉えられない壮絶な自然のいとなみを想像させさえする。

■「ERR」  堀宏行 / ビデオ / 15分
友人たちと室内で交すとりとめのない会話が中心となっている。東京郊外に住む30手前のオトコが大学卒業後、音楽を目指して活動していたけれど、いまは生活に追われて…。といったナレーションがぼそぼそと流れ、友人たちと鍋を囲む。珈琲に入れたミルクが混ざらないということを、自閉的な心理と結びあわせて描く発想も鋭い。この作品のラストは鮮烈だ。「お前ら俺を見とけよ!」と渋谷駅頭の交差点に顔をミドリに塗ったデロリンマンのような奇態な衣裳で立ち尽くす。だらだらと反復する日常からの脱出なのだろう。しかしこれは危険。逮捕でよかった、轢かれたら洒落にもなりませんぞ。

■「弓状筋肉の収縮状態における構造的並列」  野村美奈子 / ビデオ / 25分
女性の顔。瞳の超アップ。目薬を過剰に注ぐ。グラスの中の赤い液体に目薬を注いで飲む。鮮やかなひまわりや樹の枝にかかった麦わら帽子。キスをする男女。過剰に食べる女性…。断片的なシーンが脈絡なくつながっている。作者によると「この作品は『トーン・スケール』という感情の起伏を数値であらわす段階表にならって作られた」そうで並列的に描かれたシーンを観客に、それが「どのような感情なのか、想像して」欲しいという。となると戦争やブッシュ大統領は「恐れ」なにか「悲しみ」なのだろうか?スケールで測れないのが感情でもあるが、まあ女優、山下麗馨に見とれてるだけでいいか。


プログラムF

■「Carry」  あるが亮 / ビデオ / 20分
仏壇に供えられた祖母の写真にち〜んと鉦を鳴らしてスタート。他界した祖母の遺品を祖父と整理する作者。写真が好きだった祖母の死を契機に、作品を創ろうと中國へ旅発つ。天安門広場や観光地をめぐり、万里の長城を走ったりするが、どうにも作品にならない。「作者がいきづまったので最初からやり直す」と、お詫びの字幕が入り、再び、ち〜んから繰り返し、やがて大阪の女性のインタビューに切り替わる。彼女の父親の破天荒な生き方が、生きいきとした関西弁で語られると、祖母の死というテーマはどっかへ消えててしまう。と、思わせて実は…、というあたりに構成の苦心が生かされている。

■「消さない傷、消えない傷」  鳥山敦 / ビデオ / 10分
応接間の空っぽの椅子に、OFFから男の声が流れる。広島に原爆が投下されたとき、救援に駆けつけた体験談である。当事者が語る体験は、本で読むそれとは異なりじつに生々しい。火傷の薬が、メリケン粉を油でかためただけのシロモノだったり、米英和蘭の捕虜を動員して死体をかたづける体験談などは鬼気迫る。しかし、ここには語り手の姿はない。原爆ドームの鉄格子や壁は出てくるけれど、全景はいっさい撮られていない。意図してそうしたのだろうが、題材が題材だけに正面切って撮っても良かったのではなかろうか。話しもいきなり終り、作者のスタンスも示されないのは、なんとも勿体ない。

■「思考日膜〜呼吸するひと」  戸村由紀子 / ビデオ / 20分
映写機がまわり、レンズから光が放射されカーテンに映しだされる。屈辱をめぐる作者の呟きと、ビー玉を転がす美しい映像。ときにはソラリゼーションをかけて映像を浮き彫りにしたり、ろくろ状の盤面で写真を回転させたり、洗濯物の上に映写したりと、いろいろ工夫はなされているけれど、シーンをクロスディゾルブで繰り返したり、字幕を挿入したりといった操作が頻発すると、操作の手続きが見えてしまって映像の輝きが褪せてしまう。パソコンで編集する場合エフェクトはなるべく抑えて使わないと、オリジナルの力が吸収されかねないのだ。再編集でほんらいの美しい映像をとり戻しましょう。

■「罪と罰」  倉住豊和 / 8ミリ / 7分
見るのが怖い。知るのが怖い。見ることは罪。知ることは罰。だから少女は目を閉じている…。白と黒のシンプルな線描きによるアニメーションである。ワレメからヌボーっと現れた海坊主のようなキャラクターが、そんな少女に、さあ目を開けてごらんと囁きかける。作者は、汚濁にまみれた世界など見る価値がないと 言いたいのだろうか。坊主の囁きにそそのかされて目を開ける少女。と、そこには眼球が。「でも見て知ることは罰」と字幕が入ってエンド。なんだかコトバ遊びのような世界。丁寧に描かれてはいるがアニメーションならではの魅力に乏しい。アニメよりも実写のほうが良かったのでは。

■「トグロ」  入江美貴 / 8ミリ / 5分
ぐるぐるぐるぐるトグロ。ぐるぐるぐるぐるまわる。という呪文とともに、蛇やフクロウや日常の断片がつぎつぎと映しだされる。「トグロを巻いている私」の目に映った足の傷や、シンクのカビや家のドアや死んだ蝶や割れたミラーやぐるぐるまわる光などが、ほとんどヤケクソで並べたと思えるような勢いで次々と映しだされてゆく。脈絡などありはしない。作者がカメラでキャッチしたあらゆるもの(フィルムエンドの光線までも)がともかくぐるぐる呪文とともに繋げられているのだ。下手だが魅力的である。そこがほかならぬこの作者ならではの持ち味だ。ぼくにはこういう撮り方はといていできない。

■「ちくしょうべん」  大石勝敏 / ビデオ / 9分
九州に住む家族を“おれおれ詐欺”にひっかけようと電話をかける作者。カネの無心ではない。チンチンをドアに挟んでから、小便が止まらなくなったという荒唐無稽な話をでっち上げるのだ。電話を聞いて、笑いながらも心配する母親。すぐに病院に行くよう説得する父親。九州弁によるやりとりがなんともユーモラスである。画面はほとばしる水のように便器に溢れる大量の小便や、田んぼの真ん中に据えた便器に座る作者に、消防のホースから放水された水がざんぶと浴びせられるさまなどが次々と映しだされる。馬鹿馬鹿しさをまっとうに追求する作者は、ちまちました日常を笑い飛ばすかのようだ。

■「鬼やんま」  大石勝敏 / ビデオ / 13分
タイトルの“鬼やんま”は、九州北部の山中に生息する珍しい生物。絶滅が懸念されているというが、その実はすててこ姿の老人である。ある日、側溝にはまりこんだ“おにやんま”を発見し、母と兄妹で家へ持ち帰るというところから、これまた荒唐無稽なお話しが展開するのだが、作者は実家の家族のみならず、山中に生息する“鬼やんま”の群れを、知りあいを総動員して演じてもらっている。風を送ると裏返ったゴキブリのように足をばたばたさせる“鬼やんま”の可笑しさと、それを真剣に演じる祖父(だろう)の演技は絶妙。この作者のユーモラスな持ち味が、ここでもあざやかに発揮されている。


全講評を終えて

<イメージフォーラム映像研究所>卒業制作展で上映されたすべての作品について、39字7行というまったく同じ字数でふれる恒例の「全講評」を、今年もなんとか書き上げることができた。「ちいさな親切、大きなお世話」であることを承知で書き始めたのだが、字数に意味があるわけではない。ぼくのパソコンのフォーマットがたまたま39字詰めだったので、最後の「。」位置までまったく同じ字数にしてやれ、と考えただけである。そういう過酷な縛りを持ち込んで作品と対峙するということが、それぞれの創造に対するぼくなりの礼儀のつもりでもあった。

今年も講評時に見せてもらった作品が、完成時にはまったく異なる相貌を見せてくれた。そんな作品が少なからずあって驚かされた。嬉しかった。他の教育機関と異なり<イメージフォーラム映像研究所>の講評はかなり過酷である。作者というものは撮ったショットには愛着があり、なかなか切れないものだ。とりわけ撮影時に苦労をしたショットは落とせない。けれどもそういうショットを生かすためには、同じようなショットをためらい傷のように並べていては生かされない。涙をのんで落とさなければならない時もある。そうした「映像の呼吸」をたった一年でマスターするのは至難の業である。ところが、講評後、撮影をし直したり、編集を組み替えた作品は、明らかに輝いていた。過酷な講評に歯を食いしばり、苦吟しつつ試行錯誤を重ねたその努力は報われる。そうした作者たちはすでに身体の中に「映像の呼吸」を宿したことだろう。

自作を観客と一緒に見た感想はどうだったろうか。ぼくは自作を上映するときはいつも、観客席のいちばん後ろから見ることにしている。その位置が、最も客観的に自作を見ることができるからだ。研究生諸君は、これまでは客観的な視点からの指摘を講師から受けていたけれど、これからは自分の中に批評家をおかなければならない。しかも今後は、作品を手がけても甘言しか聞けなくなる。過酷な講評はないかわりに、自分の中に過酷な批評家を育てなければならない。ここまではお試しセットのようなものだ。これから先には、さらに過酷な「専科」もある。さて今年、栄光の秋山祐徳太子トロフィーは誰の手に輝くだろうか。

2006年3月19日     かわなかのぶひろ