アスパラガスBOX スーザン・ピット:魔法のアニメーション
ASPARAGUS BOX Magical Animation of Suzan Pitt
スーザン・ピット インタビュー (1980年代[Interview]誌より)
-
-
学校では確か絵画専攻でしたよね?どうして映画を作りだしたんですか?
50ドルで売っていた小さなカメラを買ってみて、それが1コマずつ撮影できることを知ったんです。ちょうどそのころ1コマずつ撮影してもいいような連続的な絵画を描いていました。まあ、結局それが初めたきっかけです。映画を作り始めてから最低2年間は他の映画作家とはまるで接したことがありませんでした。映画を作っているときはまるで世捨て人のように内にこもって作業していました。8年か9年ぐらいは絵を書くのをやめていました。
そしてやっと今、再び絵を書き始めたんですね。
2年前から書き始めました。
どうでしたか。絵を書くのを忘れてはいませんでしたか。
いえ。そんなことは全くないです。「アスパラガス」制作のために10000枚は絵を書いたはずです。絵はずっと書いていました。
ひとつ気が付いたのはあなたの絵は一点を見続けているというのが大変難しい作品だということです。あなたの絵はいろいろなところを見るように要求します。だけど全く視線が流れてしまうというわけでもありません。
それは私の作品の重要な側面です。いわゆる上質の絵画には、落ち着いた、しっかりとした構成が必須条件として考えられてきましたが、私はもっと全体的なバランスを主眼においています。しかし私の作品は全く偶然をよりどころにした出鱈目な作品ではありません。私の構成の仕方を見れば分かると思うんですが、全ての細部は注意深く順序づけられています。結果として作品が多くの場所に目を留めることを要求します。それは常に動いていて複数の絵からなるメディア、映画にもいえると思います。それらは何度も何度も繰り返し見られることによって、イメージ、あるいはイメージの連なりが理解されます。また変化というもの、またはアニメーションというものの形式と存在の価値を伝えたいという心理的な意図がありました。変化のみこそが期待を裏切らずやってくるものなのです。この世に動かないものはありません。全てが変化の過程にさらされています。私は自分の作品が過去と現在の狭間にある瞬間で捕えたようなものにしたいのです。
あなたが絵画を全体的なバランスから構成して一枚の絵にするということと、映画を作っているということはやはり関係があるのですか。
それはさっき言ったこととつながりがあると思います。私が本当に求めているものは闇のなかではなく、光の中にあります。それは絵画というものは本来ドラマチックなものだという絵画そのものについての私の考えからきています。絵画は目の前で見せるためにあるのです。絵画は自らを観客に提示します。私には絵画に存在する枠というものが、人間が自分の部屋の窓にカーテンを付けるようで、ある意味陳腐なものに感じます。まあ、それは表裏一体の関係なんでしょうけども。
でもあなたはその枠を真っ先に破ろうとしますね。
それはちょうど窓の外に向かって叫ぶように、絵そのものが外へ向かおうとしていることを表したかったのです。
どうして絵を立体的なものの上に描くのですか?キャンヴァスの上でなく。
それは私の絵画と映画両方にいえる重要なことです。私はいつも剥き出しの表現をそのまま壁に架けるということについてある種困惑を感じていました。私はアート作品と受けて側との関係性に常にひきつけられてきました。劇場という空間は作品と観客が非常に直接的に結び付いているという点でその関係性がよくあらわれる良い例だと思います。観客とショーの間には物理的にお互いを隔てる舞台などの建造物があります。それは作品を鑑賞する受手にも、そして作り手の側にも、ある種の安心感を生みます。スポットライトに隠れて舞台の裏にはけ、衣装を変えて帰ってきてそこで繰り広げられているファンタジーの一部にまた戻るというふうに。私の作品にもそういうことが言えます。誰かがもしわたしをキャンヴァスと油彩用道具一式揃った部屋に閉じ込めたなら、きっと私は発狂してしまうでしょう。それは本当に個人的なスタイルの問題なのです。私はその世界の住人であるかのように振るまうことにスリルを感じています。それは平面的な世界を見るよりもっと違った身体感覚だと思います。
あなたは白昼夢をして日々を過ごしているそうですが、夜寝ているときに見た夢は憶えていますか?
憶えていますよ。私の作品の中のものの動きを見てそう質問する人は多いですね。作品のなかでの時間の流れ方が、意識的な思考というよりは無意識的であるという点で夢を想起させるのでしょう。だけど私は夢を直接描くというようなことはしません。夢の世界というのは非常に人間にとって重要ですが、そこには独自のルールが働いています。出来事におけるルール、意味におけるルール、動きに関するルール。そこにはそこのみではたいているリアリティーがあります。ゆえに多くの夢に関する分析は全く的外れなのです。我々の無意識的存在にはシンボルや象徴というものは通用しません。寝る直前の意識的な思考、あるいは白昼夢を見ているときの思考の軌跡がより表現するのに適していると思います。
女性のアーティストは男性に比べて上映するのが難しいとか観客を集めにくいとかいったことはありますか。
ええ。女性作家は男性よりパワフルであったり意欲的であってはならないというような姿勢や空気が存在します。女性作家の最大の敵が女性達であるということはよくあることです。それは単にアートの世界の中だけの問題ではありません。一般的に女性は男性と同じ立場で生きていくことが難しいということがあると思います。彼女達がビジネスなど他の分野で苦労しているということと同じです。それは過去に由来することです。でも、その問題は改善されていくと思います。今40歳の、女性は特に何をする必要もなく、男性と同じことをすることはありえないと教えられて育った女性達よりも、現在大学を卒業した女性達はうまくそういった状況に対処できるようになるでしょう。問題は外的な要因というよりは女性達の内面的な要因にあるといえます。
女性作家の作品は他の女性に向けられていることが多いと思うのですが、それは結果的に一定の人間を疎外することになっているではないでしょうか。女性であるということをテーマに置いた作品が多く、芸術的なテーマはそう扱われない。男性はそういった作品を歓迎こそすれ、理解はできないのではないでしょうか。
男性の作家がやろうとしていることも変わってきています。彼らの感覚はより一層広がっています。シカゴで面白い絵画作品を見ました。マイク・グリエールという人の「泣く男」というシリーズです。これはすごかった。たて9フィート横7フィートの作品で、男がテーブルの上に頭を乗せて、明らかに腕をよじらせて泣いているというものです。男が泣いているという一連の作品は非常に力強さを感じさせました。マイクの作品は男性も自分自信の中により深く向かおうとしていることを示しています。多分彼らは自分達が知っていると思っていたことをしらなかったり、あるいは完全に何かを見失ってきたか、いつも避けているものがあったのでしょう。こういった動きは明らかに女性の側の表現が働き掛けているのです。
女性作家達の、女性作家であることに対する自意識について私は話しているのですが。
1970年まで女性が映画を作るということは誰も知りませんでした。ニューヨーク女性映画祭はつまり女性も映画を作るんだよということを表すためにあったようなものです。多くの作品が女性について、女性の抱える問題についてのものでした。それは重要だったし、良いことだったけども広がりがなかったのは認めざるを得ないことです。されはアンダーグラウンド芸術にもいえることです。ある一定のシーンにしか開かれていない芸術。内輪の友達はすごいと言ってくれます。「世間では分かってもらえないけど、これは本当に起こっていることなんだ」 それもいいでしょう。そうして出てきた偉大な芸術もたくさんあります。でもそれでは十分ではありません。人間として他の全ての存在に向けて作らなければいけない。そこが完全なフェミニスト芸術でまちがっていると思われることです。