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■長編実験映画の快楽
 このプログラムではイメージフォーラムのストック作品の中から国内外のエポックメーキングな長編の実験映画作品を特集してみた。実験映画の作品は特に物語的な構成を持たないかぎり大半は30分以下の短編である。実際作品を作りだすと5分や10分という時間が予想以上に長く感じるものだが、それだけ送り手も受け手も濃密な映像のコミュニケーションをしているのだといえる。そんな緊張感を保ったまま1時間前後の作品を制作するために、さあ何をどうするか?作家が採用した様々な戦略とそれをやり通す確信とのっぴきならない心情に触れてほしい。

フィルム・ビフォー・フィルム●ドイツを代表する実験映画作家であり、「映画前史」の研究家、コレクターの第一人者でもあるネケス自身のコレクションによる<動く絵>としての映画の歴史。画家や科学者のまじめな発明から、奇術としてつかわれていた幻燈、覗き見オブジェや万華鏡、フリップブックや立体写真、マイブリッジのマルチプルカメラによる連続写真の実験など、様々な<ビジュアル・トリック>を紹介する。

カメラを持った男●私はーキノグラース(映画眼)だ。 私はー機械の眼だ。 私、機械は、私ひとりだけが見ることのできる世界を諸君に示す。
 私は、今日から永久に、人間の不動性から自分を解放する、私は連続的な運動のなかにいる。私は近づき、物から遠ざかる、私は物の下にはいり込む。私は走っている馬と鼻面を並べて進む、私は全速力で群衆の中へ突っ込む、私は走っている兵士たちの前を走る、私はあおむけにひっくりかえる。私は飛行機とともに上昇する、私は落ちたり飛び上がったりする物体とともに落ちたり飛び上がったりする。
 さて、私、カメラは合成力に従って突進した、物の混沌の間を縫って行った、最も複雑にからみあった運動を次々と定着した。1秒間に16〜17コマという約束から解放されて、時間的・空間的枠から解放されて、私は、私がこれまでに定着したことのないような宇宙の任意の諸点を比較する。
 私の道はー世界のいきいきとした知覚の創造に向かっている。見たまえ、私は諸君の知らない世界を新しく解読しているのだ。(マニフェスト 月刊イメージフォーラム1982年7月号より)

波長●例えば日本でよくしられた『波長』だが、ここでは45分という時間とその間一貫してフィックス・キャメラのズームが寄っていくというコンセプトが伝説化している。しかしこの作品の最も重要な側面は、それが「音に伴って」進む視聴覚体験であることで、その音は厳密に計算された正弦波の周波数音(50〜12000Hz)と現実音からなり、タイトル(Wave Length)の由来と考えられる。(ほかにラストの写真の「波」とズームが進む部屋の「長さ」を掛けてもいる)。<中略>時間の体験、ズームを見ることは、いずれもそれ自体の官能性をたたえているのだ。そしてそれは完全にメカニックな動きではなく手動の反機械的ガタつきのなかで実現される。(月刊イメージフォーラム 1989年2月号より)

リトアニアへの旅の追憶●1949年、故郷からナチスに追われアメリカに亡命したジョナス・メカス。言葉も通じないブルックリンで一台の16ミリカメラを手にしたメカスは日々の生活を日記のように撮り始める。27年ぶりに訪れた故郷リトアニアでの母、友人たちとの再開。メカスはそれらの全てをみずみずしい映像と言葉で一つの作品にまとめ上げた。

石の詩●対象が<石>、しかもそれを<写真>で表現するという、ドキュメンタリーにとって前代未聞の枷は、たいがいの映画監督なら、まずムリとあきらめてしまうところだ。が、この作家は、動きのないものに動きを与えるアニメーションの方法をもって、どんなに激しく動く対象に迫った映画よりも、はるかに鋭い<動き>の感覚を作りだしたのである。動きを凍結された<写真>は、緩急自在に動くカメラの抑揚と、ほとんど軋みにまで分解されたサウンドによって、見るものを、息詰まるような緊張の中に誘いこむ。映画に対するこの作家の、怜悧な計算とコントロールがここに見事に結実している。(「松本俊夫の映画の果てしない彼方へ」かわなかのぶひろ '75松本俊夫映像回顧展カタログより)

15日間●1979年11月19日から12月3日までの15日間、自宅の片隅に固定したカメラの前で「私」は日々の生活や映画について語る。作者が苦痛を伴いつつ毎晩行うこの記録の儀式は、カメラ=他者という視線を「意識」しすぎて(作者のメディア意識そのものの反映)カメラの前に座る私の身体を硬直させ思考をもつれさせる。そうした有り様を密室を覗くように見ている我々観客の不自然さ、居心地悪さもまた異様である。フィルムという鏡像をとおして自画像を描いてきた鈴木志郎康のスタイルは、ここにきてカメラの前に直接自分が立ってしゃべり始めるという短絡に行き着く。カメラの前で最初は背を向けるようにして語っていた「私」は次第にカメラを直視するようになっていく。(「私という名のカメラ・オブスクラ」西嶋憲生 『生まれつつある映像』より)

無人列島●金井勝は童話「ねずみのよめいり」の哲理について夢想し続けていた。ある点より出発してふたたびその点にたち戻る。そしてこの不条理なる経路を<輪>と呼ぶなら、<輪>は大小、縦横、あるときには楕円形にゆがんでそこに絡み合っていた。やがてこの<輪>は球体をなし無数、無限に広がりを見せて、宇宙空間の引力の様に堅く結びつきボク達を包装して微笑っていた。金井はこの不条理なる輪からの離脱をイメージに『無人列島』の製作にとりかかった。その絶望的哲理との闘いは拡散する無数のオブジェを産み、ある時には猟奇の世界を形作り、ある時には悪夢の世界を放浪するのだが、その輪から見事離脱する先には<死(タナトス)>が待ちうけているのであろうか!? (宮田雪 上映会チラシより)

HEAVEN-6-BOX●『HEAVEN-6-BOX』の映像は、論理では決して解析できない霊性に満ち溢れている。大木裕之は言霊ともいうべき言葉のダブル・ミーニングの不思議な力を駆使し、巫女のように神秘的な映像を紡ぎあげた。観るものが、映像の力によって作者とひとつに結ばれることによってHEAVENの世界へとたゆたうこと。それが、この作品の最大の魅力と言える。(HEAVEN-6-BOX カタログより)

毛髪歌劇● これが、インディーズ・フィルムだ!! これは、強烈な女を強烈に追いかける愛の物語。裏ポルノじゃないよ。歌の抑揚が物語を動かして、ドラマティックに展開するロマン主義の映画。手持ちカメラは手の延長、眼の延長、耳の延長だ。映画そのものに疑いをかけ、映画を破壊するアナーキストの 映画なのだ! フィルムに直接毛髪などを貼り付けているが、これはお客様への一種のサービスであって、他意はありません。(帯谷有理 上映会チラシより)

私小説●このショットの後にどのショットをつなぐのかということに、いつも悩んでしまう。描くイメージははっきりしているのに、それを叙述する文体がいまだ掴めない。物語という叙述方法を採り入れれば解消するだろうが、それによって映像の言葉が脆弱になることには耐えられそうにない。そんな思いを絶えず抱きながら1987年から1992年にかけて手がけてきた『私小説1-6』がこの作品のベースとなっている。作品で描こうとしていることをあえて言葉にするならば、"記憶の軌跡"である。しかし具体物を撮るカメラでこれを描くのはとても難しい。(かわなかのぶひろ イメージフォーラム・フェスティバル1996カタログより)
リトアニアへの旅の追憶
石の詩
毛髪歌劇
私小説
受付(入替制)
当日900円/会員600円/3回券2,000円

<上映作品>
9/15
フィルム・ビフォー・フィルム
ヴェルナー・ネケス/16ミリ/83分/1985
カメラを持った男
ジガ・ヴェルトフ/16ミリ版/69分/1929
波長 マイケル・スノウ/16ミリ/45分/1966-67
リトアニアへの旅の追憶
ジョナス・メカス/16ミリ/87分/1972

9/22
西陣 松本俊夫/16ミリ/30分/1961
石の詩 松本俊夫/16ミリ/30分/1963
無人列島 金井勝/16ミリ版/56分/1969
15日間 鈴木志郎康/16ミリ/90分/1980

9/29
毛髪歌劇 帯谷有理/8ミリ/60分/1992
HEAVEN-6-BOX 大木裕之/16ミリ/60分/1995
私小説 かわなかのぶひろ/16ミリ/102分/1996