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旅をすると撮影したくなる。旅をすると語りたくなる。私の目前の眺めが重なり積もり始めたとき、風景が連なって何かが動き始めた・・・。映画の中に映画を入れ込み、過ごした月日を見つめる『あじさいならい』。宗教学者・中沢新一氏がチベットでの修行体験を語る『眺め斜め』。旅先の風景を撮って作品が成り立つのか?と問いながら、日常からは抜け出せない自分に迫って行く『景色を過ぎて』を上映。心と視線が旅をした映画集。
あじさいならい
16ミリ/ 50分/1985
眺め斜め
16ミリ/ 52分/1983
A 旅語り1
- 景色を過ぎて
16ミリ/ 80分/1976
A 旅語り2
- 日常生活の中で映像表現を試みるという挑戦。テレビ局のカメラマンという仕事をしながら、ほぼ毎日、約1年間身の回りを撮り続けた。やがて動機を見出すことが難しくなり、日々の自分の視点が膠着していることに気づき、職場を辞める決意をする所まで映像はつながっていく。作者自身の生活を撮影することが、生活そのものに変化を起こさせることを浮き彫りにした。今年、『15日間』と共に国立近代美術館フィルムセンターに収蔵された一作。
草の影を刈る(1〜4部)
16ミリ/ 200分/1977
B 生活
- 好きな人をみつめていたい、好きな人と一緒にいたい、だから、カメラを向けてしまう。「私」が惹かれる人たちを「私」の眼差しでみつめた。妻と子どもを撮って、個人で映画を作ることを自覚するきっかけとなった『日没の印象』。私の周り、いわゆる外側に目を向けようと二人の身近な詩人をスケッチした『オブリク振り』。100フィート(約3分)という枠内で作る企画で制作し、映像と詩人の武器である言葉の実験映画『玉を持つ』、詩人・ねじめ正一氏を主人公に“作り話”を撮った『荒れ切れ』。文通相手の詩人・福間健二夫妻の生活をじっくりと撮影した『戸内のコア』。
日没の印象
16ミリ/ 24分/1975
オブリク振り
16ミリ/ 22分/1988
玉を持つ
16ミリ/ 3分/1979
荒れ切れ
16ミリ/ 30分/1984
戸内のコア
16ミリ/ 15分/1991
C 好き人
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鈴木志郎康的身体論「言葉が衰退してからだが出てきたということ」「言葉の前にからだがあるということ」--映像とは、身体が動いた軌跡である。詩人・伊藤比呂美が語る毛を抜くという行為が身体論であることをおさめた『比呂美―毛を抜く話』。手にとるものが人生を決めているのではないか?と問う『隠喩の手』。現代美術家・海老塚耕一氏の作品を体験していく『極私的にEBIZUKA』、多摩美術大学の学生との交流から、言葉の衰退と身体の現出を感じる『衰退いろいろ2002』を上映。
比呂美ー毛を抜く話
16ミリ/ 90分/1981
D 身体1
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隠喩の手
16ミリ/ 10分/1990
極私的にEBIZUKA
16ミリ/ 40分/2001
衰退いろいろ2002
ビデオ/ 38分/2003
D 身体2
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私×言葉×時間×日常×α…×映像=(増殖)n ――私の中から、何かが生まれる、つながる、増えていく。鈴木志郎康作品に度々現れる、反復や増幅、連鎖のイメージを集めた。蘭と薔薇の花の時間的な美しさをみつめた『時には眼を止めて』。芽吹きから着想して物の数の見え方を探る『枯れ山搦めて』。自分がパイプを吸う力に驚く『気息の微分』。強く吹く風から、友人の作った8mmフィルム、さらに別の友人のアフリカを撮ったフィルムとへと、思いが転がっていく『風を追って』。
時には眼を止めて
16ミリ/ 20分/1994
枯れ山搦めて
16ミリ/ 39分/1987
気息の微分
16ミリ/ 15分/1992
風を追って
16ミリ/ 42分/1985
E (増殖)n乗
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老いて行く“わたし”に向けて。若い友人の表現活動に立ち会う『芽立ち』。73歳となった鈴木志郎康の自宅の庭で育ち続ける花を撮った『極私的にコアの花たち』。60歳の還暦を迎え、今まで何回角を曲がってきたのだろうという感慨を持ち、自分の還暦を一人祝った『角の辺り』を上映する。
芽立ち
16ミリ/ 34分/1998
極私的にコアの花たち
ビデオ/ 53分/2008
角の辺り
16ミリ/ 15分/1995
F 老若
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「私」とは何者なのか?そして、「私」を撮った映画が成り立つのか? 個人の立場で映画を作るということの根本に、大胆に向き合った。無人のカメラの前に15日間立ち続けることで、「私」と「映画」の両方の本質をあぶり出す。近年盛んな“セルフドキュメンタリー”の先達と言える作品。今年、国立近代美術館フィルムセンターに収蔵される際に作られた35o版で劇場初公開する。
15日間
16ミリ→35ミリ/ 90分/1980
特別プログラム 私点
- 1935年東京生まれ。1960年代からNHKでカメラマンの仕事をする傍ら、詩人として活動する。詩の分野ではH氏賞、萩原朔太郎賞など数々の賞を受賞。60年代後半からは映像作品も手がけ、16ミリやビデオで日記、エッセイ的な作品を現在まで作り続けている。1977年にNHKを退社し、詩作と映像制作を生活の中心とするとともに、多摩美術大学やイメージフォーラム映像研究所などで教鞭をとる。自分自身を撮影対象にした「セルフドキュメンタリー」の制作手法を、フィルム時代に始めた先駆的な存在である。