The Possibility of 8mm film 日本凱旋上映
この企画のきっかけは2005年。アメリカのオースティンで毎年開催されている"Cinematexas"という国際映画祭でした。僕はその前年に自作(「極東のマンション」)がコンペティションで入選しました。その作品と、翌年出品した作品(「マリコ三十騎」)も8mmであったため、主催者のRalph McKayさんから「最近の日本の8mmで作られた個人映画をまとめて上映してみないか」という話をいただき、急遽僕が個人的に好きだった作品の作者に連絡し、上映許可をもらい・・・なんとかアメリカで無事上映、気が付けばロッテルダム国際映画祭2006でも上映していただきました。上映後の反応はいずれも非常に良く、あるカナダの映像作家さんは、「こういった独特な語り口は日本独特なものでしょう、見られて最高だわ」というようなことを語ってくれました。自分でも改めてまとめてスクリーンで観た時、8mmを扱うことで(それがために、ということではないにしろ)何があったのか、それで今は何がないのかを考えさせられました。見て頂いた方と一作一作について、またプログラムの全体についてもお話できたらと思います。(真利子哲也)
こうそく坊主
縄跳びをする毛皮を着た坊主とゴムチューブを指に掛けて投球練習をするユニフォーム姿の男。チューブを支える女が手を放すと、男と坊主はミニマルな反復運動を始める。激しい肉体運動と恍惚とした表情が相まって、エスカレートする音とリズム。だが、二人の男の首にチューブが捲かれ、たちまち躍動は女に「拘束」された。意志のいびつな子供のような、そんなパワーをおもいっきり投げつけてみた。ストライク?ボール? (玉野真一)
純情スケコマShe
部屋で扇風機の修理をする坊主頭の男と、強い日差しの下、ベッドの上で膝の裏を「プップップップー」と、狂ったように鳴らす男。そして、その男に水を浴びせる女。純情な出会いを果たした三人はスケコマシーな風に身をまかす。と、ストーリーみたいなものを書いてはみたが、この作品に存在するのは直感のみなのだ。いいよいいよ、いい感じ。(玉野真一)
放飼(HANASHI★GUY)
ムサくて、ユルくて、プリミティブ。見た目の馬鹿馬鹿しさと、このようなものをわざわざ時間をかけて緻密につくる馬鹿馬鹿しさとの同居がテーマといえばテーマでした。(武藤浩志)
ピピンポップ
ドローイングや人形ではなく、実写をコマ撮りする技法(ピクシレーション)によるアニメーションの労作。若者の肉体が何千回もジャンプしている瞬間を高速で見続けるうちに、不思議とおなかが空いてくる
昼顔海岸
8mmフィルムを縦に切断し、、右フレームは3分の長回し、左フレームは自分のス好きな風景の断片をつなぎました。僕が嫌いな夏の1番暑い時期をフィルムの中に封じ込めた作品です。(コタキマナブ)
因果の手
江戸人(江戸時代の江戸に住んでいる人々)が平賀源内の発明したシングル8を使って実験映画を作ったらどうなるかという実験映画です。フジカラーのある調布は物凄く田舎なので、当時の実験映画作家は朝まだ暗いうちに家を出て、甲州街道をいそいそと西に向かったのでした。金持ちは駕籠で行く。(門脇健路)
マリコ三十騎
新しく建てられたビルディングと取り壊される学生会館。 新しいものと古いもの。ビデオとフィルム。自分と先祖。物語。(真利子哲也)
あっちゅへ
自分がいて、言葉がある。この作品は言葉がいて自分がある。 私と言葉の距離は、なんていいかげんなんだろう。 身体だってそうだ。いったい本物はどこにあるんだろう。(森山可奈子)
お母さんへ
私的な手紙を公共の場で見せるということ。(能瀬大助)
人のかたち
自分自身を写すために。(能瀬大助)