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カメラを持った男
9/8(土)9(日)15(土)16(日)

「ジガ・ヴェルトフの映画は... 実験室における世界の分析である」(イリヤ・エレンブルグ) 映画独自の言語探究とは、世界を"映画の眼"<キノ・グラース>で捉え、映画的に感じること。

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  • 当日700円 会員500円

    タイムテーブル

日付 2:00 4:00 7:30
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カメラを持った男

ジガ・ヴェルトフ/16ミリ版/69分/1929




ジガ・ヴェルトフのマニフェスト

<世界で最も重要なものは、世界を映画的に感じること>
出発点はこうである。
空間に充満している混沌とした視覚現象を調査研究するための、肉眼よりも完全なキノグラース(映画眼)としての映画カメラの利用。
キノグラースは、時間のなか空間のなかを生きて動きまわり、知覚し、人間の眼でみたのではないような、全く別の印象を定着する。観察するときのわれわれの身体の状態や1秒の間にわれわれが知覚するあれこれの視覚現象の要素の量は、映画カメラにとって絶対に必要というものではないが、知覚する量が多くなり、知覚の質が良くなればなるだけ、映画カメラはより完全なものとなる。
われわれは、われわれの眼をいま以上に良くすることはできないが、映画カメラは、無限に改良することが出来る。
スクリーンの上を馬が不自然なくらいゆっくりと動いている(カメラのクランクのはや廻し)とか、反対にトラクターがあまりにも速いスピードで畑を耕している(カメラのクランクのおそ廻し)とかで、映画カメラマンは今日まで一度ならず非難を受けてきた。
これは、もちろん、偶然によるものだが、われわれは熟考の上、偶然のシステム・現象を調査研究し、組織して、法則に反するようにみえるシステムを作ろうとしている。
今日まで、われわれは、われわれの眼が行う仕事をカメラにコピーさせてきた。コピーがうまくければうまいほど良い撮影だと考えれられてきた。われわれは今日から、カメラを解放し、反対の方向で、コピーとはかけ離れたところで、仕事をさせる。
人間の眼の弱さはすべて明らかとなった。キノグラースは混沌とした運動のなかからみずからの運動のための合成力を見つけだしている、とわれわれは断言する。時間と空間の次元を持ったキノグラースは自分の力と可能性を自己肯定にまで高めている、とわれわれは断言する。

私はーキノグラース(映画眼)だ。
私はー機械の眼だ。
私、機械は、私ひとりだけが見ることのできる世界を諸君に示す。
私は、今日から永久に、人間の不動性から自分を解放する、私は連続的な運動のなかにいる。私は近づき、物から遠ざかる、私は物の下にはいり込む。私は走っている馬と鼻面を並べて進む、私は全速力で群衆の中へ突っ込む、私は走っている兵士たちの前を走る、私はあおむけにひっくりかえる。私は飛行機とともに上昇する、私は落ちたり飛び上がったりする物体とともに落ちたり飛び上がったりする。
さて、私、カメラは合成力に従って突進した、物の混沌の間を縫って行った、最も複雑にからみあった運動を次々と定着した。
1秒間に16〜17コマという約束から解放されて、時間的・空間的枠から解放されて、私は、私がこれまでに定着したことのないような宇宙の任意の諸点を比較する。
私の道はー世界のいきいきとした知覚の創造に向かっている。見たまえ、私は諸君の知らない世界を新しく解読しているのだ。
(月刊イメージフォーラム1982年7月号より)

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