プロフィール

1956年福岡市生まれ。新聞記者の父と看護婦の母の次男として出生。映画好きの父の影響で映画大好き少年に。ただ教育的配慮なのか東映アニメやディズニー映画ばかり見せられる。『ゴジラ』シリーズや『サンダ対ガイラ』といった当時子供たちが真っ先に見に行く怪獣映画にはいっさい連れて行ってくれなかった。しかしせがみにせがんでついに見た『大魔神』と『ガメラ対バルゴン』の2本立てを劇場で見た時、大魔神に串刺しにされる悪代官や緑の血を吹き出しながら戦う怪獣たちの残虐な映像にスッゲーと大興奮。高揚した顔つきに親が心配するほどだった。その後ますます映画にはまっていく。と同時に漫画を描くのが趣味だった私は石森章太郎の「サイボーグ009」をオリジナルストーリーで描いたり、手塚治虫や横山光輝の模写に没頭。小学生時には昼休みや放課後の教室でストーリー漫画を皆が見ている前で描き悦に入っていた。小6から中学にかけて長編怪獣漫画「対戦」をノート3冊に描破。地元博多湾から現れた怪獣が石油コンビナートや平和台球場をことごとく破壊して回り、日本を縦断し北海道で他の怪獣と対決するというスペクタクル。地元の風景をロケハンし怪獣に破壊させる場所を選定するなど異常な情熱をそそぐ。将来は漫画家だねと回りから言われ本人もその気になっていたが、その後手塚治虫の『火の鳥』を読んで大ショック。こんな凄い物語は自分には絶対考えられないと確信して漫画家になる事をあきらめた。
中学時代は変声期の声が沢田研二に似ていたので「タイガース」の物まねで人気者に。休みの日はほとんど映画を見に行っていたが、そんなにお小遣いがあるわけでもないので試写会の会場に裏口から忍び込んでタダ見を時々していた。少しずつ悪い事も覚える。そんな試写会で大興奮させられたのがスティーヴ・マックイーン主演の『大脱走』。尋常でないドキドキ感とハラハラ感を味わい映画の真の面白さというものを感じた。漫画や映画に没頭するオタク少年ではあったが、中学の時は短距離走で常に1〜2位、またバスケットボール部でも活躍するなどスポーツマン精神も身につけている。高校入試は第一志望校に失敗し、仕方なくやたら運動だけ強い高校に入る。その高校では体育=剣道の授業を密かな楽しみにしていたが、入部までには至らず。ここの運動部は野蛮なので。またここは男子校だったので教師の力は絶大、ビンタや飛び蹴りは日常茶飯事だった。私も強烈なビンタを数学の教師に食らわされたが、そうやって自分の非に気づかされた。また高校時代は美術部で絵を描きながら、いっぽう父のカメラでカメラ小僧として写真を撮りまくり、芸術の世界への興味が少しずつ熟成していく。
九州芸術工科大学画像設計学科にどうしても入りたくて浪人生活を2年間送る。予備校通いとバイトの日々の中で先の見えない不安な日々を送っていた。そんな18歳のある日、『ノストラダムスの大予言』という東宝の特撮映画を見た帰りに胃が破裂して救急病院へ。術後医者からあと3時間遅かったら死んでたよ、と言われた。死ぬってこういうことかと妙に納得するのと同時に、映画『ノストラダムスの大予言』は以後トラウマとなる。
3度目の正直で大学合格。浪人生活の欲求不満が爆発し、映画研究部、写真部、バスケットボール部に同時に入部。先輩や教官の仕事の手伝いなど体を動かし回る。そんな時8ミリカメラを親戚から借りて初めて撮影し、家の襖に映して大興奮。あるはずのない風景がそこに現れるという映像の原初的な力にものすごく感動した。そんな時出会ったのがFMFという自主上映グループで、彼らの上映会に何となく飛び込んで見た8ミリ映画に強烈な刺激を受け、私も映画作るから上映してー!と、彼らの活動に参加するようになった。ここから私の個人映画の創作が始まった。同時期福岡で上映された「松本俊夫」個展上映はその創作欲に拍車をかけた。特に彼の『アートマン』という実験映画は私の目標になった。こんな映画を作りたいと強く思った。そして大学4年の時なんとなく時流に乗って就職を決めてしまったが、その直後その松本俊夫がうちの大学に赴任してくることがわかり内定を断って大学に残った。松本俊夫が大学にやって来て画像設計学科の雰囲気はいきなり変わった。実験映画の授業が増え学生たちも映像思考になり映像作品を作るようになってきた。そんな中私は松本俊夫の指導のもと卒業研究として16ミリ処女作『SPACY』(ヤ81)を制作した。この作品の企画書を松本俊夫に見せた時、「君、これほんとに出来るのか?」「出来たら面白くなるだろーなー」という言葉に私はこの人を絶対感動させてやると思った。『SPACY』は本人も驚くほど世界中で高く評価され嬉しいのと同時に大変なプレッシャーを感じたが、もっともっと映画を作りたいという欲求が沸き、翌年再び卒業研究の名目で『BOX』(ヤ82)を手がけ、さらにその翌年も卒業研究で『THUNDER』(ヤ82)を発表。3年間の自主留年創作期間を終えいいかげん卒業。
卒業後は西武百貨店文化事業部に入社。西武美術館やスタジオ200のスタッフとして働いたが、スタジオ200での初めての仕事が「追悼寺山修司」だった。東京へ来て寺山修司の生舞台がやっと見れると思っていた矢先の事だったのでとても残念だった。その後ATG(日本アートシアターギルド)という映画制作配給会社に出向。石井聰互監督の『逆噴射家族』(ヤ83)の特殊視覚効果をこの時に担当した。ATGでの製作・配給・宣伝の勉強を終え1984年から西武の映画配給会社シネセゾンの宣伝部に配属。おすぎとピーコや淀川長治によく怒られたものだが、彼らの仕事に対する情熱と厳しさには社会人としてとても教えられるものがあった。また私の予告編作りには定評があり騙しのテクニックはピカイチだった。また会社勤めのかたわら有休やズル休みを駆使して個人の映画制作を行ったが、私の創作にとても理解のある上司だったので全くトラブルはなかった。毎年恒例のイメージフォーラム・フェスティバルには招待作家として新作映画を出品。私の作品を見ていた劇作家如月小春から声がかかり舞台に私の映像を取り入れたいということで参加した「MORAL」(ヤ84)の公演はとても刺激的で、以後彼女の舞台の映像スタッフとして毎年のように参加することになる。1992年の秋には国際交流基金の支援により東欧3ケ国を訪問し、自作の上映と講演会を行う。観客からの鋭い質問にたじたじとなり東欧映画芸術の歴史の深さを実感した。というわけであれやこれや公私ともに忙しい東京での社会人生活を10年間送り、10年目にして晴れて宣伝部次長に昇格。分厚い給料袋を手にすることもなくその直後に退職し、京都芸術短期大学の専任講師として京都で新しい人生が始まった。
京都に来る前の3年間は作家として何を作ったらいいかわからなくなり創作をやめていた。そんな私に再び火をつけてくれたのが“下克上上映会”という名の、教師の新作を学生が批評するという不条理な上映会だ。その果し状を学生たちが研究室に持って来た時、お前ら面白いなと余裕の表情を見せながらも内心は不安でいっぱい。そこで久々に作った『12月のかくれんぼ』(ヤ93)は上映後学生たちの喝采を浴びとても感動した。学生たちの素敵な罠にはまりその後次々と作品を作るようになる。松本俊夫によって構想設立された映像コースは、その当時東京よりも面白い作品が生まれてくる西の拠点と言われていた。その言葉通り学生たちは非常に優秀だった。というより型破りでエネルギッシュ!たとえ作品が破綻していてもそのパワーに魅入ってしまうことがよくあった。私は彼らに刺激を受けながら、助けられながら映画を作り続けた。1999年、京都芸術短期大学は併設の京都造形芸術大学に吸収合併され映像コースは映像・舞台芸術学科として再スタート。私は映像の責任者で、舞台の責任者の太田省吾とこの学科の設計にたずさわった。あまりの忙しさに『静かな一日』(ヤ99)は未完成のままイメージフォーラム・フェスティバルに出品。上映日の前日にプリントを持ち込み危うく出入り禁止になるところだった。この作品は2002年に『静かな一日・完全版』として完成させた。この学科での演劇人やダンサーたちとの出会いは私に多大な影響を与えた。2000年のオープンキャンパスで余興のつもりで行なったダンサー岩下徹と映像のコラボは予想をはるかに超えて面白く、身体と映像の間にある不思議な磁場の魅力を自分なりに追求してみたいと思った。以後積極的に舞台での映像表現に挑戦。2001年のダンサー山田せつ子とのコラボ「Double」は1年かけて準備し大学内の劇場で公演したが、観客以上に私自身が興奮していた。その後も伊藤キムや白井剛、寺田みさ子、砂連尾理などの先鋭的なダンサーや劇作家川村毅とのコラボなど、映画作り以上に熱中した。2009年の1月には「恋する虜/The Dead Dance」という、ダンサーの映像を11台のプロジェクターと4枚の鏡を使って歌舞伎劇場の舞台上に映し出すインスタレーション作品を初めて手がけた。
2000年から2003年にかけて海外での私の特集上映が集中し、ドイツ、オランダ、台湾などでの映画祭に招待された。この頃になると大学での現場で鍛えられていることもあり、トークショーでの鋭いツッコミもなんのその、相手を説得する術を身につけていた。
映画を作り始めて30年あまりが過ぎた。これまでのほとんどの作品がDVDとなって世に出ることになったが、ここで過去の創作にいったん区切りをつけて今一度新しい創造へ向けてスタートしたい。そんな気分だ。(伊藤高志)

伊藤高志
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